2011年4月7日木曜日

『その名前は。』

 桜の木につぼみが芽吹いた。
 縁側に座る少女は、茫洋と、桜の木を眺めている。新しい季節の到来を象徴する風景に、しかし、目を輝かすでも、笑みを浮かべるでもない。ただ両の目に風景だけを溶かし込むように。
 
 いつ終わるか―――いや、終わるかどうかすら知れぬ長い命。その端緒は長い生に擦り切れた少女にはもはや思い出せなかったし、その過程は思い出せるほどに色づいたものではなかった。絶望も希望もなく、ただ引き伸ばされた生を、物語なく生きる日々だった。

 そんな灰色の中に、僅かにだけ存在した有色の日々。
 「残酷な物言いだとは解ってる」と。そう前置きして、しかし刹那の時に過ぎないとしても共にありたいと告げた、彼。彼と過ごした春は、こんなに乾いたものではなかったのに。
 涙も浮かべず、乾いた少女は、不思議だなあと首を傾げた。
 声も、顔も、仕草も、全て薄膜を通したように朧気なもので。何年前の話だったかも定かではなく。彼が存在したことだけが、彼の記憶の全てだった。
 少女はしかし、忘却を悲しむほどの情感さえ放棄してしまったのだろう。泣くことも、嘆くこともない。
 
 ただ、一つだけ。彼のことを考えるたびに胸に湧く想いの名前を、彼が生きているうちに聞いておけば良かったと。
 少女の胸には、投げかける相手を失った問いだけが残っていた。

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