2014年2月16日日曜日

『セルフサービス』

第二十一回SSコンペ(お題:『バレンタイン』)



「……なんだこれ、水牛か?」

 壁を埋め尽くす計器類に、天井から垂れ下がる無数の電源ケーブル。雑然とした景色とは裏腹に、室内の空気は極めて清浄に保たれており、部屋の主の意識の向かう先が伺われる。
 そんな研究室の中で、茶色の牛に肩を預けてもたれかかる少女を前に、青年は困惑を隠そうともせずにそう言った。
 
「違いますよ。牛は牛ですけどね」

 ふふん、と笑う少女に、青年の表情が渋みを増す。自分にはよくわからないことが起きていて、かつ少女が上機嫌な時、何かしら被害を担当するのは自分だと経験的に理解しているからだ。

「聞きたくもないけど聞くぞ。それ、何の牛なんだ。なんで研究室に牛がいる」
「おっと、もうちょっと渋るかと思ってましたが、イベント会話であることを看破しましたか。さすがは先輩ですね」
「正直、ミッション失敗判定でお開きにしたいんだけど……」
「残念、強制イベントです。特定キャラとの会話がトリガーの、ね」

 言いながら、少女は手元の端末に短いコマンドを続けざまに入力する。途端、彼女の背後に控えていた幾つものシャッターが次々と開き、中に隠されていたものたちが青年の視界に入ってきた。

「これは……牛……だよな…………?」
「なんで疑問系ですか。牛ですよ」
「いや、俺の知ってる牛とはだいぶ違うんだが」

 シャッターの向こうから現れたのは、色とりどりの牛の群れだった。純白の牛、ピンク色の牛、黒毛という言葉が馬鹿らしくなるほどに全身いたるところが真っ黒の牛。
 単色の彼らはまだマシな方で、中には黒の中に真紅の斑だったり、黒と茶の縞だったりと、幼い子供の塗り絵をそのまま現実に持ってきたような模様のものも存在した。

「なんなんだよこの悪夢みたいな光景は……」
「先輩、今日は何の日か知ってます?」
「ん……まあ、そりゃな」

 言い淀む青年の姿を見て、少女は勢いづく。

「おやおや、ってことは先輩、やっぱり期待して来ちゃいました? 期待しちゃってました? んんん? どうなんですそこんとこ……あっボディはやめてくださいよボディは」
「いいからさっさと教えろ。なんだこれ」

 いそいそと脇腹をかばいながら距離をとり、少女はひとつ咳払いをして、

「バイオ工学によってこの私に創造されたチョコ牛です」

 きりり、と音が聞こえてきそうな澄まし顔で、そう言った。
 言い終わると同時、既に青年は踵を返して入り口へと歩を進め始めていた。腰に縋り付くように少女がタックルを敢行する。たたらを踏みつつ、青年は止まった。

「待って待って待って待って! なんですかもう、まだまだパーティは始まってもいませんよ!?」
「やだよ俺もう……どうせチョコ味の牛を食えってんだろ? 色は味と対応してんだろ? またぞろ俺が実験台なんだろ? いいから義理ですーって言ってチロルチョコの一つでもくれよそれで納得するから」
「うわぁ……畳み掛けるように流れで義理チョコ要求とは本気で必死ですね……」
「なんで基本的に話聞かないのに流して欲しいところだけ拾うんだお前」

 傷ついた風に呟く青年に、少女は笑みを深める。

「愛ゆえに、ですよ。話を戻しますけど、色と味が対応してるのはその通りです。可食部は肉ではないですけどね」
「いや、まさか……お前、さすがに排泄物をチョコ扱いってのは……」
「しませんよ! 可憐な少女になんてこと言うんですか!」

 すまんすまん、とおどけた様子に、本気では言っていないことが知れた。まったく、と少女は溜息をひとつ。

「乳ですよ、乳。乳房からチョコが出てくるんです、このバイオ牛たちは」
「乳って連呼すんなよ自称可憐な少女。まあ、肉よりはマシか。依然としてイカれた絵面だけど」
「でしょう? 肉はナシとして、じゃあ尻から出すか乳から出すかで悩んだ末の英断ですよ。褒めてくれてもいいんですよ?」
「おい可憐な少女、おい」
「まあそんな訳で、わかりますよね?」

 にっこり、と微笑む少女に、青年が照れを滲ませた様子で頭をかく。

「んー、その、まあなんだ、チョコを用意してくれた……ってことでいいんだよな。ちょっとアレな絵面のチョコだけど、それは素直に嬉しい……ん、あれ、ちょっと待った」
「なんです?」
「それ、乳房から出るってことは液状のチョコなんだよな?」
「ええ、そりゃそうです」
「貰う側が事前にごちゃごちゃ言うのって凄く気が引けるんだけどさ、こういうのって型に入れて固めたりとかするんじゃないのか」
「いや、しませんけど?」
「ああ、ということは器から直飲み的な……? いや、ごめんな実際。用意してもらえただけでありがたいのにさ。なんか文句ばっかり言っちゃって。アレか、チョコレートドリンクって奴なのかな」
「いえ、器は先輩の口です」
「はい?」
「ですからこう、授乳の要領でですね?」

 牛の下に寝そべり、乳房の下であー、と口を開きながら、片手で何かをしごくような動きをしてみせた。
 青年は無言で近づくと、瓦割りの要領で手刀を落とす。

「なんですかもう痛い痛い! ボディはやめてくださいって!」
「なんで牛に授乳されなきゃならないんだよ! 百歩譲って蛇口捻って出てくるとかでもいいだろうが!」
「搾乳プレイは男の夢だって雑誌で」
「今すぐ捨てろよその雑誌……あーもう……」

 青年はためいきをひとつ。そのまま踵を返して歩き出す。

「えっ、あれ、怒っちゃいましたー? せんぱーい?」

 呼び声に応えて振り向いた青年の、その顔にはあからさまな照れの色。

「……器取ってくるんだよ、器。ここ、なんかしら冷やす機材とかあんだろ? オリジナルチョコ作って食おうぜ」
「おっと。ではでは、お供しますよ」

 よっこらせ、と身を起こそうとする少女に青年が手を差し伸べる。どうも、と起き上がったその表情には、満面の笑みが浮かんでいた。





「……ところで先輩、さっきパンツ見えてましたよね? どんなもんでした?」
「言わんでおけば綺麗に終わってたところを、お前は……」

2014年1月30日木曜日

『三者三様』

第二十回SSコンペ(お題:『二次創作』)
*『ゆゆ式』の二次創作SSとなっています。ネタバレなどは気にしなくてもよい、はず。
 

「……参ったな。小説って、こんなに書くの難しいものだったのか」
 もう一時間も経つというのに、机の上に開いたノートにはまだ何も書けていない。左側のページの上の端っこ、数行分だけが何度も書いては消しての繰り返しで汚れていて、後の部分はぜんぶ真っ白だ。
 何のイメージも湧かないまま、手だけが先に進む感じで、どこかで見たような物語を拙く書き始める。当然、そんなのがうまく流れに乗ってくれる訳がない。
 それでもどうにか続けようと頑張っているうちに、自分の書いたものがどうしようもなく恥ずかしいシロモノに見えてきて、反射的に消しゴムを掛けてしまう。
 そんなことを、延々一時間も繰り返していた。成果はくしゃくしゃになったノートの冒頭と、大量の消しゴムのカスだけ。
「制限がない、ってのも考えものだよなぁ……」
 はあ、とため息をついて体重を椅子に預ける。そのまま背を反らして、天井をぼーっと眺める。部屋掃除の途中で漫画を読み始めてしまった時みたいに、一気に精神が弛むのを感じた。
 緩んだ勢いで、思考が自然とどうでもいい方向に流れてゆく。悪い傾向だなー、と頭の隅っこで冷静に考えている自分がいたけれど、もう遅い。雑念が頭を覆っていく。
 ―――だいたい、ゆずこが悪いんだ。あたしにリレー小説のトップバッターなんて荷が勝ちすぎてるってあんなに主張したのに、唯ちゃんなら大丈夫、と言って譲らなかった。そのせいで今、あたしはほっぽり出して寝ることもできずに、こうして延々唸るハメになっている。
 ……そんな風に正当化してみても、やっぱりというか何というか、やらずに寝るなんて選択肢は浮かんでこなかった。
 いつだったか、4コマを描いていく流れになったことがあった。あの時もこうやって悩んで、結局、よくわからないものしか完成しなかった。翌朝、あたしはそれを披露しなかったんだけど―――ゆずこも縁も、あたしが見せたくないことを悟ってか、そのことに言及することはなかったし、そのことを今回、盾にとったりもしなかった。
 だから、できなかったと言えば流してくれるだろうとは思う。でも、だからこそ、やってやりたい。まして今回はリレー小説なのだし。きっと二人とも、自分が何を書くか、ある程度は考えているんじゃないだろうか。そう考えると、ますますやらなきゃいけない気がしてくる。
 よっ、と姿勢を戻す。そのまましばし、目をつぶる。
『唯ちゃんなら大丈夫』
『唯ちゃん、ファイトっ』
 別れ際の二人の顔を思い浮かべて、よし、と呟く。萎えかけていたやる気と一緒に、ちょっとしたアイデアが湧いてきた。二人の顔を思い浮かべたまま、シャーペンを手に取る。
「何もないところから書こうとしたのが間違いだったのかもな……」
 どこかで見たような、いや、毎日見ているようなお話を、少し脚色して書いていく。あたしたち3人におかーさん先生、それと岡野さんたちくらいしか解らないだろう、ニッチにも程があるネタを散りばめつつ。
「(……うん、これでいい、はず)」
 この一時間の苦闘が嘘のように、手が進む。そのままあたしは、少しの寝不足を覚悟しなければならない時間まで、手を動かし続けた。



 朝、唯ちゃんにノートを渡されてから、私はずっとそわそわしっぱなしだった。
 本当のところを言えば、今回はお流れになっちゃうかな、と思ってた。唯ちゃんが約束を破るかも、って疑ってた訳じゃなくて、むしろその逆。唯ちゃんは真面目すぎるから、適当に力を抜いてでっち上げるって選択肢をたぶん選ばない。気負って、こんなんじゃ駄目だ、と思ってしまうかもしれない。書いても書いても、こんなの見せられたものじゃない、なんて考えてしまうかもしれない。
 駄目そうだったらむしろネタにしてセクハラでも迫るのが唯ちゃん的には一番楽かな、なんてことまで考えてもいた。
 ……そんな風に思ってたから、登校してすぐに「ほら、書いてきたぞ。次はゆずこの番な」なんて言われた時には、喜びのあまり雄叫びをあげてしまったほどだ。即座に唯ちゃんの鉄拳と縁ちゃんの爆笑を頂いた。ありがとうございます。
 正直、渡されてからは早く読みたくて仕方なかった。授業も何も手につかなかったくらい。よっぽど解りやすい顔でもしてたのか、授業中に何度か唯ちゃんと目が合って、その都度睨まれたりもした。視界の端で羨ましそうな顔をする縁ちゃんが可愛かったなあ。
 休み時間も唯ちゃんは私から目を離したくなかったみたいで、よっぽど人前で読まれるのが嫌だったらしい。そんなことしないよー、と拗ねてみせるのも面白いかと思ったけれど、唯ちゃんの意識を惹きつけたまま過ごすというのも新鮮で楽しくて、ついつい思わせぶりな動きを繰り返してしまった。反省反省。縁ちゃんにもネタを多めに振ったとはいえ、悪いことしちゃったかも。
 ともかくそんな訳で、待ちに待った読書タイム。さっそく机の上にノートを広げ、読書用の眼鏡を掛けて、内容に目を通す。自分が続きを書くこともあり、二度三度と読み返していく。
「なるほどなるほど、そう来ますか……」
 思わず、腕を組んで頷いてしまう。
 二番バッターとして、私はどんな物語でもうまく縁ちゃんに渡さなければいけないと思ってた。だから色んなパターンを予め想定しておいたんだけど、唯ちゃんの選んだ方向性はそのどれでもなかった。完全に予想外。
 ……予想外だけれど、考えておいた他のパターンのどれよりも馴染んで、続きを書きたくさせる物語だ。何しろ、ここには『唯ちゃんから見た私たち』が描かれてる。私が何を書くべきかなんて、もう最初から決まってる。
「全く、これだから―――唯ちゃんは最高だねっ」
 シャーペンを手にとって、次のページから物語を続けていく。考える時間なんてほとんどいらない。書くべき言葉はノータイムでいくらでも湧いてくる。
 唯ちゃんの紡いだ言葉を受けて、咀嚼して、できるだけ面白くなりそうな流れの中に解き放つ。毎日毎日繰り返してきた、これからも何度だって繰り返したい遊び。このリレー小説だって、その延長線上にある。だから、いまさら頭を捻ることなんてない。
 ただ、いつもなら自分で拾い直したり、唯ちゃんに投げ返すことも考えて作るネタを、今は縁ちゃんのためだけに整えてゆく。そこだけ感覚が違って、なるほど、これは楽しい作業だ。
 可能性はなるべく潰さない。唯ちゃんが残してくれた伏線らしきものに全部乗っかって、自分でも更にフックを埋め込んでいく。これも、いつもの私たちの延長線上。頭の隅で自分のネタが縁ちゃんと唯ちゃんを経て戻ってきた時のことを想像したり、いや、でも縁ちゃんのことだから何をしてくるかわからない、本当に戻ってくるのかな、と笑いを噛み殺したり。
 さあ縁ちゃん、どこに枝葉を伸ばしてもいいよ―――そんなことを考えながら、私は唯ちゃんの物語を継いだのだった。



『縁の好きにやっていいぞ』
『縁ちゃんなら大丈夫! 私が保証するよっ』
 二人はそう言ってくれたけど、正直、何を書いたらいいのかさっぱり決まらない。
 そう、“決まらない”。書きたいことはたくさんあるんだけど、どれを選べばいいのか、私にはよくわからない。
 はいどうぞ、と渡されたお話が魅力的すぎて、私は何をどうしたらいいのか決められずにいた。唯ちゃんのお話はするっと私の中に入り込んできて、ゆずちゃんのお話はそこからたくさんの可能性を引っ張りだしていて。
 こんなに楽しそうな道がたくさんあるんだから、どれを選ぶべきかなんてわからない。
「……はあ。困っちゃうなあ」
 うーん、と唸りながらシャーペンをもてあそぶ。うまく回らないペンを何度も机に取り落としているうち、どんどんと無駄な時間が過ぎていく。さっき読んだ話を反芻しながら、とりとめもないことを考え続ける。
 ……
 …………
 ……………………あ、いま半分くらい寝てた。
 いけないいけない、と頭を振って座り直す。
『縁の好きにやっていいぞ』
『縁ちゃんなら大丈夫! 私が保証するよっ』
 改めて、ふたりの言葉を思い出す。好きにやっていい。大丈夫。
「うん、大丈夫……私は大丈夫……最強……最強……?」
 繰り返し唱えるうち、なんとなく変な気分になってくる。とりあえずシャーペンを持ち直してノートに向かう。好きに。大丈夫。よーし。
 いましがた、半分寝ながら妄想していた通りのお話を、そのまま書いていく。あっちこっちへ寄り道してしまうのも気にしない。とにかくたくさん、思った通りのことを書いていく。私が思った通りに。唯ちゃんと、ゆずちゃんの言葉を飲み込みながら。
「(……あ、これって―――)」
 なんだ、そうだったんだ、と安心する。そっか、やってることは変わらないんだ。いつものおしゃべりと、何も変わらない。
 そう思ってみれば、このお話はすごく面白い。さっきまでも面白かったけど、今は違う面白さを見せてくれる。
 唯ちゃんの見た私たち。ゆずちゃんの見た私たち。当たり前すぎて普段は気にしない、お互いの目を通してみた自分たちのすがた。
「なら、私がやらなきゃいけないことは―――」
 いつもどおり、唯ちゃんに甘えて、やりたいことをする。全くもう、とため息をつきながら、唯ちゃんは応えてくれるはず。そんな私たちに、ゆずちゃんはもっと面白い遊びを提案してくれるに違いない。
「戻ってくる時が楽しみだなあ……」
 にへら、と笑みを浮かべながら、私は唯ちゃんに託す無茶ぶりの内容をいそいそと詰め始めるのだった。



「そして出来上がったのがこれ、かぁ……」
 おかーさん先生、出来ました! と野々原さんがノートを渡してきた時には何のことかと思ったけれど、話を聞いてみれば、部の三人で回し書きしたリレー小説とのこと。
 思った以上に楽しくて、と少し照れ気味に櫟井さんが言った通り、ノート一冊分の小説というのは少し圧倒されてしまうくらいの量だ。頑張ったよね~、と誇らしげに呟く日向さんの表情に、思わずこちらも笑顔にさせられた。
 最初はやっぱりおかーさん先生に読んでほしいよね、などと言われては、こちらとしても気合を入れて読まざるを得ない。なんだか乗せられているような気もするけれど。
 預かっても大丈夫とのことだったので、家に持ち帰って読ませてもらうことにする。いつもは少し寂しい独りの家が、今日だけは三人と一緒に帰ってきたみたいで、少し暖かいような気がした。
 帰ってすぐに、ノートを開く。
「……そっか、あの子たちの目には、こう見えてるんだ」
 櫟井さんの目から見た二人、野々原さんの目から見た二人、日向さんの目から見た二人。互いに抱く好意と敬意がぐるぐると輪になって続いている。誰かのアイデアが次の人に、そしてまた次の人にと、伝播していく様子が見て取れる。なるほど、あの子たちのやりとりを遅回しに再現してみたら、こんな様子が見えるのかもしれない。
 夕食もそこそこに、集中して読み耽る。……たまに出てくる、自分と思しき年長者の美化されっぷりに、気恥ずかしいものを覚えたりもしつつ。きっとこう思うことまで織り込み済みで書いているのだろう。野々原さんの担当部分だろうか、やっぱり。
 読み終えた時には、心地良い疲労を感じる程度の時間が経っていた。伸びをして、寝支度を整えにかかる。
「っと、その前に」
 ノートの最後のページ、思わせぶりに開けられた空白に、赤ペンでさらっと輪を描いた。
「これでよし、と」
 ぱたんとノートを閉じる。きっと仲の良い子たちにも読ませるのだろう。あの子たちの見る世界を、他の子が垣間見る。それはとても、素晴らしいことのように思えた。

2014年1月14日火曜日

『交感契約』

第十九回SSコンペ(お題:『契約』)

「ん、あんた何見てんの?」

 ソファでくつろぐ少年の手に紙片が握られているのに気付いて、少女はそう問いかけた。
 ん、と唸って、少し口ごもると、少年は笑顔をかみ殺すような素振りを見せてから、少女にそれを渡した。
 首を傾げて訝しみつつ、どうも、と素っ気なく呟いて紙片を受け取る。裏返しに渡されたそれは、便箋のようだ。なぜこいつがこんなものを、などと疑問に思いながら、少女はためつすがめつ、紙片を眺める。
 よほど古いものなのか、粉っぽい紙肌が少女の指に引っ掛かる。淡い色と華やかな縁取りの装飾から、女子の持ち物であろうと知れた。そういえば幼い頃、ちょうどこんな便箋を遣っていた―――ような―――おぼえが―――?

 そこまで考えたところで、脳裏に記憶がなだれ込んでくるのを少女は感じた。忘れていた、否、封印していた記憶。数拍遅れて、顔面に血が集まるのを感じる。即座に、便箋に書かれた文面を検める。そこには、記憶通りの文章が踊っていた。
 勢いよく顔を上げれば、そこにはもう笑いを堪えきれないといった様子の少年。その様を見て、羞恥とはまた別の感情が少女の顔を更に赤く染めていく。

「なんっ―――であんたがこれを! 今! 持ってんのよ!?」

 記憶が正しければ、これは今も自分の机の奥底に封印され、そのまま日の目を見ずに今に至るはず。幼少のみぎり、眼前の少年を半ば脅すようにして書かせた契約書だ。そのまま完璧に存在を忘れていたが、何がどうあれ、いま少年の手元にはあるはずのない代物だといえる。
 当然の疑問を見て取ったか、少年は平然とした風に答えた。

「そりゃ、こっそりと取り戻したのさ。そんなの握られたままじゃ、怖くて夜も寝られないだろ?」

 少年の言葉に、すぅ、と少女の表情から怒りの色が抜け落ちる。
 あ、まずい、と少年は胸中で失策を悟った。流石に煽り過ぎたらしい、と否応なく理解させられる威圧感。ふーん、と呟くその声色が、どこまでも空々しい。

「あんたまさか、わたしの部屋に忍び込んだ訳?」

 少女の声は平坦だ。無論、平静に立ち返った訳もない。怒りの予備動作に過ぎない。
 一瞬後の爆発の予兆を見て取ったか、少年は顔を引き攣らせた。何かを言わねばならない―――とはいえ、気の利いた返しなど思いつく訳もなく。仕方なしに、気を逸らすための事実をひとつ、開陳する。

「まさか。弟さんに頼んだのさ」

 幾分か慌てた様子で告げられた言葉に、少女の顔から表情が消え失せる。へぇ、と呟き、顎に手をやり、視線を斜め上の空間に飛ばしてしばし沈黙する少女。息の詰まるような静寂の中を、死刑囚の気持ちで少年は待った。
 少女はやがて、うん、とひとつ呟いて、

「……シメるか」

 宙空に投げかけられた、極めて抑揚に欠けた呟きを、少年は努めて聞き流すことにした。すまない、と胸中で少女の弟に謝罪して、話をもとに戻しにかかる。このまま行けば、怒りの矛先が自分に向くことは火を見るより明らかだ。。

「しかしまあ、当時は本気で戦々恐々としてたけど、いま読むと何だか微笑ましくすら感じるよ」

 む、と少女が反応する。うまく興味を惹けたらしい。少年の脳裏に、いつか流行った釣り漫画の一コマが再生された。
 
「何ていうのかな、いまになってみれば、子供の発想だったんだなあ、って」

 う、と少女の顔が赤みを取り戻す。よし、と少年は心中、ガッツポーズを決めた。

「そりゃ、ね。いくら昔の私だって、大人目線でヤバいと思うようなものなんか書かないっつーの。……あん? 何よ変な顔しちゃって」

 髪をくるくると弄びながら早口に捲し立てる少女が、少年の呆けたような表情に気付いた。ドスを利かせた声で問い詰める。
 我に返った少年は、焦りながらも、何か言葉をひねり出そうとして、

「―――いや、何でも」

 出てきたのが、これだ。最悪だ、と少年は胸中で独りごちる。若干の間を置いての、意味ありげな否定。なにか腹に一物あります、と暴露しているも同じではないか。
 案の定、少女はじーっと少年の顔を凝視していた。またもや訪れた、生きた心地のしない沈黙。やがて少女は、ふっ、と表情を緩めた。すわ助かったか、と期待する少年だが、

「……『自覚あったんだね』って顔してるわよ、あんた」

 ぽつりと告げられた言葉に、ぶわっ、と少年は冷や汗を吹き出す。
 その反応だけで充分だった。疑惑を確信に格上げしたらしい、少女はいい笑顔を浮かべて、少年ににじり寄る。

「そっかそっか……そういうこと考えてたワケね。ん?」

「あっ、そういえば僕、今日はパーティーの約束が」
 
 それじゃあね、と部屋を辞そうとする少年の肩を、少女の手が万力のように締め上げた。
 
 
 
 
 
「おとなしくゴメンナサイって言えば乱暴はしないっつーのに、なんであんたはそう人をおちょくるのかしら」

 少年を文字通り尻の下に敷き、頬杖をついて少女は呟いた。げしげし、と肘で少年の脇腹を殴打しておくことも忘れない。
 
「そりゃ、おとなしく謝罪しても関係なく乱暴されてきたんだから、いっそ煽りに煽って最大限に楽しんでやろうって考えるようになるのが合理的思考ってやつじゃないかな」

 いわゆる局所最適化だよね、と少年は嘯く。ふうん、と感心したふうに、少女の声。

「なるほどねえ。道理ではあるわね―――っと」

 よっこらしょ、という呟きと共に、少女は全体重を少年の体に加える。臀部を通して、みしり、と嫌な音。 

「ぐえっ、重……あっ嘘です重くな……ぐえぇっ……ぁ…………」

 言い掛けたところで、更に重を加える。少年が喋らなくなったことを見て取ると、少女は念のため、更に肘打ちを繰り返し、完全に少年の意識が断ち切られたことを確認する。
 全くもう、と溜息をついて、少女は立ち上がり、

「だから口応えすんなっつーのに。よくよく進歩しない奴ね」

 言って、思い出したように件の便箋を手に取り、目を通す。
 
 
 ―――けいやく書。
 
 ―――わたしはあなたにおやつをあげます。
 ―――あなたはかわりにどれいになってわたしをたのしませます。
 ―――このけいやくはいっしょうつづきます。
 ―――おわり。
 
 
「……全く、我ながらどこで覚えたんだか、こんな言葉」

 自分のこととはいえ、末恐ろしい文面だ。不平等契約にも程がある。先ほど指摘された時には怒りを露わにしてしまったが―――まあ、それはそれ。別腹としておく。
 そんな風に少女がいつも通りの欺瞞を決めていると、キッチンから音が聞こえた。そう、少年を招いたのは他でもない、新しいお菓子のレシピを試してみたくて―――
 
「……おっと、進歩がないのは私もか」

 一本取られたわ、と未だ黙して語らない少年の方へと呟きを寄越して、少女は中断していた調理を再開しに掛かった。