2013年1月3日木曜日

『わたしの書架』

第十八回SSコンペ(お題:『本』)

 幼い頃から、脳裏に焼き付いていた景色がある。
 暗い図書館の中、ランプの光に仄明るく浮かび上がる、万年筆を走らせる女性の姿。
 お屋敷の中庭に建てられた図書館の大広間、書架が森のように乱立する空間の、その中心に据えられた小さな文机に座って、彼女は一心に何かを書き記していた。

 物心ついた頃から、図書館を訪れることが僕の日課だった。
 朝早く起きて、朝食も摂らず、図書館へ行く。すると、どんなに早い時間でも、彼女は既に作業を始めていた。入室してきた僕を認め、会釈をしてくれた時に見せる微笑みが、僕の一日の始まりだった。 
 彼女の傍らに座って、その作業を観察する。万年筆の先が紙を擦る音が断続的に響く。それを縫うようにして、二人の衣擦れの音と、僕の呼吸音が聴こえる。彼女の邪魔になるといけないと思い、僕は努めて静かにしていた。いつか、なぜ黙るのかと訊かれ、正直に言ってしまった時、彼女は笑って「気にしなくてもいいですよ」なんて言ってくれた。それでも僕は、自分の呼吸音がうるさく感じられるほどに、息をひそめるのが常だった。彼女の奏でる記述の音と、残りの空間に横溢する静寂とを、僕は愛していた。
 彼女が何を書いているのかを、僕は知らなかった。文字が読めなかったからだ。ただ、規則正しく奏でられる種々の音と、ランプに照らされた横顔の陰影とを享受するだけで、僕は満足だった。

 朝食、昼食、夕食と、食事時になるたび、僕は図書室を離れなければならなかった。彼女と一緒に食事を摂りたいとも思ったが、彼女は図書館を離れたがらなかったし、図書館で飲食をすることは彼女に伺うまでもなく憚られた。
 彼女と少しでも長く過ごすために、彼女の姿を目に焼き付けるために、僕は早起きに努めることにした。寝不足を窘められたりはしたものの、あの静謐の中で過ごす時間は、少しくらいの気怠さの対価としては過分と言っていいものだった。事実、朝の眠気の中にあってさえ、彼女の傍にいられれば、僕はそれ以上ないほどに満ち足りていたのだ。
 起きる時間を30分早めて、一時間早めて、などと繰り返すうちに、やがて日の出の前に図書館を訪れるようになって、僕は初めて違和感に気付いた。そんな早い時間に訪問するようになってさえ、彼女が図書館に出入りするところを、僕は一度も見たことがなかったのだ。或いは図書館で寝泊まりしているのかな、とも考えたけれど、寝具は見当たらなかったし、そんなスペースがあるようにも思えなかった。何より、仕事場で寝起きするような生活は、彼女に相応しくないように思えた。
 
 ある日、僕は夜中に目を覚まして、図書館へと向かった。
 夜の空気に身を震わせながら、図書館の扉を薄く開く。全く普段通りに記述を続ける彼女の姿があった。僕はそのまま部屋に戻って、少し時間を開けてから、また図書館の様子を探った。変わらず彼女は作業を続けていた。また同様に時間をずらして、確かめた。日を改めて、何度も繰り返した。僕は彼女が眠らないらしいと知った。

 ねえ、お姉さんは人間なの、と僕が聞いた時、彼女はあからさまに困った顔をしてから、いつもの微笑みを浮かべて、首を振った。
 拍子抜けするほどあっさりと明かされた真実に、僕は驚いていた。彼女が人間ではなかった―――アンドロイドであろうことに、ではない。本当のことを言えば、そのこと自体にも驚きを感じてはいたのだけれど、それ以上に、それならばなぜ、という驚きがあった。
 アンドロイドであるのなら、データの入出力にわざわざアナログの媒体を遣う必要はない。データとして文字を、媒体として本という形態を選ぶことは、読者に文字を読むことのできる存在を想定したことの証だ。しかし、僕を含めた現行の人類は、既にアナログの文字媒体によるコミュニケーションを主だって行なってはいない。それは趣味人の領分で、限られた人間の娯楽へと零落、或いは洗練されてしまっている。この屋敷に、文字を読むことのできる人間はいないはずだった。アンドロイドに読ませることは可能だけれど、ならば尚更、文字媒体を選ぶ必要はない。
 その疑問に気付いたのだろう、彼女は机からケーブルを取り出して、自分の首筋に挿した。そして、反対側のコネクタを僕に渡す。促されるまま、僕は首筋のインターフェースにコネクタを接続した。世界が混線―――いや、彼女がホストなのだろう、向こうのものに統合される。他人の感覚器で演算された世界の、異質な手触りに、酩酊感を覚える。
 気付けば、僕は元の図書館にいた。いや、彼女と僕を繋ぐケーブルが消えたところを見ると、これは彼女の見せる心象領域なのか。戸惑う僕に、彼女が先ほどまで記述していた本を差し出してきた。彼女の脳が視覚を乗っ取り、文字のデコードを担当しているのだろう。その内容は、読めないはずの僕にも理解できた。

 本の内容は、僕の行動に関してのものだった。……いや、精確に言えば、それは彼女が過ごす日々を、彼女の視点で綴ったものだった。僕が傍らで息を殺す様子、寝不足なのか船をこぐ様子、いつかの夜にドアの隙間から覗っていたことさえ、そこには書かれていた。
 自分の行動を客観的に記述される、という恥ずかしさに呻いていると、彼女は数冊の本を僕の視界の中に滑り入れた。そこに書かれた日付けは僕が生まれる前のもので、そこでは彼女は、屋敷の中を巡り掃除をしていたり、屋敷の主人のお世話をしていたり、今のように図書館に篭っていたりと、時代によって全く違う過ごし方をしていた。
 そして、それらの記録は全て、彼女の主観を通して記録されていた。アンドロイドであるのなら、それこそ映像や音声、やろうと思えばセンサを遣って空間そのものの様子を3Dで記録することも出来たはずだ。でも彼女は、敢えてしなかった。受容した世界を、言葉というあやふやな形式に便り、本に綴っていったのだ。

 なぜ、と質問した僕に、忘れるためです、と彼女は答えた。
 あらゆることを記憶できてしまえば、狭い世界での生活は、徐々に色褪せていく。可能性を食い潰しながら日々を送ることになる。だから、本という形で出力された記憶を、徐々に摩耗させていくような仕様にした。遠い遠い昔の主の仕業らしい、と彼女は含むもののありそうな声色で続けた。その顛末も、本で確かめて思い出したのだという。
 だったら尚更、記憶領域を順次凍結していくだとか、そういう手段を取れば良かったのに、と僕は言った。彼女はそうですねと微笑んでから、でも、と首を横に振った。そして、こう続けたのだ。何を以って人格としましょうか、或いは、成長としましょうか、と。だから結果オーライなんです、とも。
 
 その言葉を聞いて、合点がいった。そして、辺りを見回す。図書館に林立する書架に収められた本は、全てが同じ装丁で統一されていて、そこに刻まれた日付けは、規則正しく推移していた。
 記憶が人格を、変化が成長を。緩やかな忘却と、限定的な想起。つまり、彼女の仕様の、本当の狙いとは。
 道理で気付けなかった訳です、と僕は言った。彼女は嬉しそうに微笑んで、手元の本に、また新しい記述を付け足した。