2012年12月24日月曜日

『ごちそうさま』

第十七回SSコンペ(お題:『食事』)

 ぞぶり、と果肉を噛み切るような音がした。
 次いで、水音まじりの咀嚼音。生理的な嫌悪を、理性でねじ伏せる。

「……何度も言うけれど。つらいなら、外しなさい」

 口元を赤く染めた少女の声は、どこまでも平坦だった。
 そこに安堵を覚えながら、僕は首を振る。

「けじめ、だから」
「―――そう。ならいいけど」

 そう言って視線を切ると、少女は咀嚼を再開した。
 彼女に背を向けて、僕は佇立する。
 ぶしゅ、と何かの潰れる音。ぱたぱたと液体の滴る音。
 断続的に聞こえる音に、否が応にも、行為の様子を想像させられる。
 浮遊感を伴う気持ち悪さに耐えながら、僕は終わりが来るのを待っていた。

 ……どれくらい経っただろうか。
 気付けば、口から胸元までを真紅に染めた少女が、こちらを眺めていた。
 ハンカチを取り出して、彼女に渡す。軽く頷くと、彼女は口元を拭った。

「終わったわ。これで当分は保ちそう」
「そっか。後始末は僕がするから、少し待ってて」

 言って、彼女の食事跡に残る骨を、火ばさみで布袋に詰めていく。
 一塊に盛られた骨の山に吐き気を覚える自分と、律儀に整えられたその絵面に面白みを感じる自分とが、奇妙に共存していた。
 
「つらい?」

 熱に浮かされたような意識の隅で、骨の処理に考えを巡らしていると、彼女の声が降ってきた。
 覗きこむようにして投げ掛けられた言葉には、いつも通り、何の感情も読み込むことができない。
 ―――心配も、同情も、憐憫も、哀しみも、揶揄も、何もない。
 言葉通り、ただ彼女は、僕がつらいかどうかを確認しているだけなのだろう。

「ちょっと、きつい。でも大丈夫、好きでやってることだから」

 安堵と、名状しがたい感覚とが同時に去来するのを自覚する。
 即物的なものだな、という自己嫌悪と、行動原理を再確認させられたような所感とを、同時に抱く。
 彼女は少しだけ目を細めて、

「そう。……そう言うのなら、私は構わないけれど」

 やはり何の感慨も乗せずに、そう言った。
 何も変わらないその言葉に、救われている自分がいた。

 ……彼女と出逢ったのは、半年ほど前の出来事だ。
 あの日、路地裏で僕は、屍体に縋りつく少女と出逢った。

 最初は、気が狂れてしまったのかな、と思った。
 親しい人の死を受容できず狂ってしまったのかもしれない、と。
 でも、少女の居る場所から聞こえる水音が、明らかな異状を訴えていることに、僕は気付いた。
 視線に気付いたか、足音で察したか、ゆっくりと面を上げた少女の口元は、赤黒く染まっていた。

「……何かしら。取り込み中だから、手短にお願いするわ」

 異端者としての露悪も、異常者としての狂気も、捕食者としての敵意も、そこには無かった。
 言葉通り、食事中に人が訪れたから、対応しただけ。
 思えば、その在り様を見た瞬間に、僕は狂ってしまったのだろう。

「君は、人を食べるの?」

 出てきた言葉は、自分でも驚くほどに平静なものだった。
 理性と本能とが乖離したような感覚。

「ええ。食べないと死んでしまうから」
「その人間はどこで? まさか、殺したの?」
「そんな身体能力はないわ。行き倒れていたから、頂いたの」

 何の含みも感じさせない、事実だけを述べる発話。
 僕はその時点で、彼女に惹かれていたように思う。

「一ついいかな」
「何かしら」
「君と一緒にいたい」

 脈略も何もない、唐突な言葉に、

「構わないわ」

 ただ頷いた彼女に、仕えようと決めたのだ。





「……やっと見つけた。まあ、場所は移動してるわよね。隣町、とは思わなかったけど」

 路地裏で眠る少女のもとに、少女が一人、訪れた。
 眠っていた少女は、頭を預けていたもの―――死体から体を起こし、来訪者を茫洋と見据える。
 鉄パイプを肩に担いだ少女が、路地を塞ぐように仁王立ちしていた。

「誰かしら」
「あんたが誑かした男の妹よ。返してもらおうと思って、来てみたんだけど―――」
「そう。……そう。残念ね、彼は」

 少女の視線が、横たわる死体に落とされる。
 鉄パイプの少女は、ああ、とひとつ呻いてから、皮肉げな笑みの形を取り繕った。

 行き倒れの死体など、そう転がっているものではない。手を広げれば、足がつく。
 いつしか増え出した失踪者と、完全には消しきれなかった痕跡から、彼らの姿は容易に捉えられた。
 人を食べるだけの少女と、華奢な少年とでは、警戒を強めた人間を捕食することは困難で。
 二人組の食人鬼が目撃され、追われるまでに、そう時間は掛からなかった。

「まあ、そんなことだろうとは思ってた。……どうして死んだの?」
「一昨日の晩に自殺したわ。僕を食べて、って手紙を遺して」
「……まあ、そんなことだろうとは思ってた。本当に、馬鹿なんだから」

 やれやれ、と肩をすくめる少女に、敵意の色はない。

「憎くないの?」

 空虚な声が路地裏に響く。
 ぎちり、と鉄パイプを握る掌に力が篭る。

「……わたしはあんたを裁かない。あの馬鹿兄も、ね。裁かないことに、決めた」

 無表情に見据えてくる少女を強く睨みながら、言葉を続ける。
 そう、と少女は呟く。それきり沈黙した相手に、びしりと鉄パイプを突き付けて、少女は続ける。

「食べるにせよ、食べないにせよ……よく考えなさい。何がしたいのか、何を求められてたのか」
「……食べて、いいのかしら」

 投げ掛けられた疑問の、或いは自問の素朴さに、相貌が崩される。
 はあ、と溜息をひとつ吐いて、

「あんた、人を喰ったような奴だわ」
「そう。……まあ、事実ね」

 はん、とひとつ鼻をならして、少女は路地裏を去った。
 後には少女と、ひとつの死体が残された。

2012年12月9日日曜日

『きみがため』

「お姉さんはどう思います? 今回の話」

 小首を傾げながら問う少女の所作に、わたしは内心、気味の悪さをすら覚えていた。
 少女は弟の幼馴染で、お姉さんに相談がある、とわたしの部屋を訪れている。

「えーっと、転校生があんたたちのクラスに来たんだっけ。美人の」
「ええ。すっごく美人で、優しくて、クラスの人気者なんです」
「その娘が弟を意識してる、って?」

 はい、と神妙に頷く少女。
 話の流れだけ見れば、ごく健全な恋愛相談だ。
 でもわたしは、ここから段々と話が歪んでいくであろうことを知っている。

「この場合、どう立ち回ったら彼をいちばん幸せにできるんですかね。いっそ身を引くべきかな、とも思うんですが」

 うーん、とかわいらしく腕組みなどしながら発せられた言葉には、何の含みも感じられない。
 件の転校生への当てつけでもなければ、わたしのフォローを期待しての振りでもない。言葉通りの、素朴な疑問なのだろう。

「いや、そこは『私が幸せにしてみせるんだから!』くらい言うべきでしょ」

 "気のいいお姉ちゃん"ならそう言うであろう、と仮構したロールに忠実な発話。
 心の篭らない言葉を発することにも随分慣れてしまった。罪悪感も既に無い。
 畢竟、わたしがどう助言をしようとも、少女は己の考える最適を導き、また実行するのだろうから。

「でも、私の存在が彼の幸せに寄与するかどうか、まだ確定してる訳ではありませんし」

 無私の美しさ、を説いたのは誰だったか。
 存在をすら悟らせない献身。見返りの一切を期待しない奉仕。
 なるほど、そこには凄絶な美しさが宿っている、ような気がしなくもない。

「その論理だと、いま身を引くっていうのは尚早じゃないの?」
「いいえ、私はずっと彼と一緒にいることができますから。その点、転校生さんの感情は水物かもしれないので」
「気持ちがある内にくっつけておいた方が、ってこと?」
「ですね。そこに最善があるかも知れない訳ですから」

 盤上の駒を操るがごとく人を扱う、その暴力。
 恐ろしいのは、指し手が自らをすら駒と捉えていることだろう。
 ―――『一緒にいることができますから』。
 己の存在が最善への手筋に不要だと認識すれば、この少女は躊躇しないに違いない。

「でもさ。それが最善じゃなかったら、傷が残るよ。ふたりともに」
「そこなんですよね、問題は」

 珍しく見せた溜息に、僅かに安堵のようなものが芽生えるのを感じて、

「その傷が、ミスマッチの齎した不幸せが、巡り巡って最高の幸せに転嫁される可能性が捨て切れないんです」

 ―――すぐに、怖気に転じた。
 何を期待していたのだろう。転校生や弟への気遣いの言葉が出てくる、とでも?

「考慮すべき事項が多すぎるんですよね。一時的な不幸せが最高の幸せに繋がるかもしれない。そう考えると、可能性は無限です」

 刹那的な幸せと安定的な幸せ、という対比ですらない。最善を求める自律思考。
 他人の幸せを、相手にとっての主観的な(・・・・)幸せを、価値観の変遷まで含めて考察する生き物。

「なんで彼は一回しか生きられないんでしょうね。悠長に試してる暇なんてないのに―――」

 それは恋ではなく、もはや愛でもなく。
 きっと、幸せを希う概念と化してしまった少女に、わたしは恐怖していた。