2012年12月24日月曜日

『ごちそうさま』

第十七回SSコンペ(お題:『食事』)

 ぞぶり、と果肉を噛み切るような音がした。
 次いで、水音まじりの咀嚼音。生理的な嫌悪を、理性でねじ伏せる。

「……何度も言うけれど。つらいなら、外しなさい」

 口元を赤く染めた少女の声は、どこまでも平坦だった。
 そこに安堵を覚えながら、僕は首を振る。

「けじめ、だから」
「―――そう。ならいいけど」

 そう言って視線を切ると、少女は咀嚼を再開した。
 彼女に背を向けて、僕は佇立する。
 ぶしゅ、と何かの潰れる音。ぱたぱたと液体の滴る音。
 断続的に聞こえる音に、否が応にも、行為の様子を想像させられる。
 浮遊感を伴う気持ち悪さに耐えながら、僕は終わりが来るのを待っていた。

 ……どれくらい経っただろうか。
 気付けば、口から胸元までを真紅に染めた少女が、こちらを眺めていた。
 ハンカチを取り出して、彼女に渡す。軽く頷くと、彼女は口元を拭った。

「終わったわ。これで当分は保ちそう」
「そっか。後始末は僕がするから、少し待ってて」

 言って、彼女の食事跡に残る骨を、火ばさみで布袋に詰めていく。
 一塊に盛られた骨の山に吐き気を覚える自分と、律儀に整えられたその絵面に面白みを感じる自分とが、奇妙に共存していた。
 
「つらい?」

 熱に浮かされたような意識の隅で、骨の処理に考えを巡らしていると、彼女の声が降ってきた。
 覗きこむようにして投げ掛けられた言葉には、いつも通り、何の感情も読み込むことができない。
 ―――心配も、同情も、憐憫も、哀しみも、揶揄も、何もない。
 言葉通り、ただ彼女は、僕がつらいかどうかを確認しているだけなのだろう。

「ちょっと、きつい。でも大丈夫、好きでやってることだから」

 安堵と、名状しがたい感覚とが同時に去来するのを自覚する。
 即物的なものだな、という自己嫌悪と、行動原理を再確認させられたような所感とを、同時に抱く。
 彼女は少しだけ目を細めて、

「そう。……そう言うのなら、私は構わないけれど」

 やはり何の感慨も乗せずに、そう言った。
 何も変わらないその言葉に、救われている自分がいた。

 ……彼女と出逢ったのは、半年ほど前の出来事だ。
 あの日、路地裏で僕は、屍体に縋りつく少女と出逢った。

 最初は、気が狂れてしまったのかな、と思った。
 親しい人の死を受容できず狂ってしまったのかもしれない、と。
 でも、少女の居る場所から聞こえる水音が、明らかな異状を訴えていることに、僕は気付いた。
 視線に気付いたか、足音で察したか、ゆっくりと面を上げた少女の口元は、赤黒く染まっていた。

「……何かしら。取り込み中だから、手短にお願いするわ」

 異端者としての露悪も、異常者としての狂気も、捕食者としての敵意も、そこには無かった。
 言葉通り、食事中に人が訪れたから、対応しただけ。
 思えば、その在り様を見た瞬間に、僕は狂ってしまったのだろう。

「君は、人を食べるの?」

 出てきた言葉は、自分でも驚くほどに平静なものだった。
 理性と本能とが乖離したような感覚。

「ええ。食べないと死んでしまうから」
「その人間はどこで? まさか、殺したの?」
「そんな身体能力はないわ。行き倒れていたから、頂いたの」

 何の含みも感じさせない、事実だけを述べる発話。
 僕はその時点で、彼女に惹かれていたように思う。

「一ついいかな」
「何かしら」
「君と一緒にいたい」

 脈略も何もない、唐突な言葉に、

「構わないわ」

 ただ頷いた彼女に、仕えようと決めたのだ。





「……やっと見つけた。まあ、場所は移動してるわよね。隣町、とは思わなかったけど」

 路地裏で眠る少女のもとに、少女が一人、訪れた。
 眠っていた少女は、頭を預けていたもの―――死体から体を起こし、来訪者を茫洋と見据える。
 鉄パイプを肩に担いだ少女が、路地を塞ぐように仁王立ちしていた。

「誰かしら」
「あんたが誑かした男の妹よ。返してもらおうと思って、来てみたんだけど―――」
「そう。……そう。残念ね、彼は」

 少女の視線が、横たわる死体に落とされる。
 鉄パイプの少女は、ああ、とひとつ呻いてから、皮肉げな笑みの形を取り繕った。

 行き倒れの死体など、そう転がっているものではない。手を広げれば、足がつく。
 いつしか増え出した失踪者と、完全には消しきれなかった痕跡から、彼らの姿は容易に捉えられた。
 人を食べるだけの少女と、華奢な少年とでは、警戒を強めた人間を捕食することは困難で。
 二人組の食人鬼が目撃され、追われるまでに、そう時間は掛からなかった。

「まあ、そんなことだろうとは思ってた。……どうして死んだの?」
「一昨日の晩に自殺したわ。僕を食べて、って手紙を遺して」
「……まあ、そんなことだろうとは思ってた。本当に、馬鹿なんだから」

 やれやれ、と肩をすくめる少女に、敵意の色はない。

「憎くないの?」

 空虚な声が路地裏に響く。
 ぎちり、と鉄パイプを握る掌に力が篭る。

「……わたしはあんたを裁かない。あの馬鹿兄も、ね。裁かないことに、決めた」

 無表情に見据えてくる少女を強く睨みながら、言葉を続ける。
 そう、と少女は呟く。それきり沈黙した相手に、びしりと鉄パイプを突き付けて、少女は続ける。

「食べるにせよ、食べないにせよ……よく考えなさい。何がしたいのか、何を求められてたのか」
「……食べて、いいのかしら」

 投げ掛けられた疑問の、或いは自問の素朴さに、相貌が崩される。
 はあ、と溜息をひとつ吐いて、

「あんた、人を喰ったような奴だわ」
「そう。……まあ、事実ね」

 はん、とひとつ鼻をならして、少女は路地裏を去った。
 後には少女と、ひとつの死体が残された。

2012年12月9日日曜日

『きみがため』

「お姉さんはどう思います? 今回の話」

 小首を傾げながら問う少女の所作に、わたしは内心、気味の悪さをすら覚えていた。
 少女は弟の幼馴染で、お姉さんに相談がある、とわたしの部屋を訪れている。

「えーっと、転校生があんたたちのクラスに来たんだっけ。美人の」
「ええ。すっごく美人で、優しくて、クラスの人気者なんです」
「その娘が弟を意識してる、って?」

 はい、と神妙に頷く少女。
 話の流れだけ見れば、ごく健全な恋愛相談だ。
 でもわたしは、ここから段々と話が歪んでいくであろうことを知っている。

「この場合、どう立ち回ったら彼をいちばん幸せにできるんですかね。いっそ身を引くべきかな、とも思うんですが」

 うーん、とかわいらしく腕組みなどしながら発せられた言葉には、何の含みも感じられない。
 件の転校生への当てつけでもなければ、わたしのフォローを期待しての振りでもない。言葉通りの、素朴な疑問なのだろう。

「いや、そこは『私が幸せにしてみせるんだから!』くらい言うべきでしょ」

 "気のいいお姉ちゃん"ならそう言うであろう、と仮構したロールに忠実な発話。
 心の篭らない言葉を発することにも随分慣れてしまった。罪悪感も既に無い。
 畢竟、わたしがどう助言をしようとも、少女は己の考える最適を導き、また実行するのだろうから。

「でも、私の存在が彼の幸せに寄与するかどうか、まだ確定してる訳ではありませんし」

 無私の美しさ、を説いたのは誰だったか。
 存在をすら悟らせない献身。見返りの一切を期待しない奉仕。
 なるほど、そこには凄絶な美しさが宿っている、ような気がしなくもない。

「その論理だと、いま身を引くっていうのは尚早じゃないの?」
「いいえ、私はずっと彼と一緒にいることができますから。その点、転校生さんの感情は水物かもしれないので」
「気持ちがある内にくっつけておいた方が、ってこと?」
「ですね。そこに最善があるかも知れない訳ですから」

 盤上の駒を操るがごとく人を扱う、その暴力。
 恐ろしいのは、指し手が自らをすら駒と捉えていることだろう。
 ―――『一緒にいることができますから』。
 己の存在が最善への手筋に不要だと認識すれば、この少女は躊躇しないに違いない。

「でもさ。それが最善じゃなかったら、傷が残るよ。ふたりともに」
「そこなんですよね、問題は」

 珍しく見せた溜息に、僅かに安堵のようなものが芽生えるのを感じて、

「その傷が、ミスマッチの齎した不幸せが、巡り巡って最高の幸せに転嫁される可能性が捨て切れないんです」

 ―――すぐに、怖気に転じた。
 何を期待していたのだろう。転校生や弟への気遣いの言葉が出てくる、とでも?

「考慮すべき事項が多すぎるんですよね。一時的な不幸せが最高の幸せに繋がるかもしれない。そう考えると、可能性は無限です」

 刹那的な幸せと安定的な幸せ、という対比ですらない。最善を求める自律思考。
 他人の幸せを、相手にとっての主観的な(・・・・)幸せを、価値観の変遷まで含めて考察する生き物。

「なんで彼は一回しか生きられないんでしょうね。悠長に試してる暇なんてないのに―――」

 それは恋ではなく、もはや愛でもなく。
 きっと、幸せを希う概念と化してしまった少女に、わたしは恐怖していた。

2012年11月26日月曜日

『夢の奏でる歌』

 第十六回SSコンペ(お題:『サイバーパンク』)


 六面全てが白色で塗りつぶされた部屋に、少女が二人現れた。背の高い少女と、小柄な少女だった。
 何の前哨もなく中空から現れた彼女たちは、これもまた突然現れた椅子に座り、互いに目を合わせる。
 
「えー、それでは定期電脳演奏練習を始める」

 背の高い少女がそう言うと、部屋の壁は四角錐を敷き詰めた棘状の面を形成し、その内の一面には巨大なアンプが2つ出現した。
 その反対側の壁には、防音の扉と覗き窓。それなりに作り込まれたスタジオのディテールを目にして、小柄な少女が、うへえ、とうめき声を漏らした。

「そこまで凝る必要、ある? ぶっちゃけ部屋の外枠だって必要ない訳じゃない」

 二人の肩にストラップが、その先にギターとベースが現れる。急な重量の増加に、小柄な少女がたたらを踏んだ。
 へっ、と一つ笑って、背の高い少女が続ける。
 
「気分だよ、気分。何もない場所でぽつんと二人、楽器弾いて楽しいか?」
「それはそれでエモそうじゃん。なんかPVっぽいし」
「PVねえ。撮られるような身分にまで上り詰めてみたいもんだが」
「そう、だね。いつか、きっと」
「……ん、どうかしたか?」

 応酬のテンポが乱れる。
 少しだけ、トーンの落ちた応答。目ざとく察して、背の高い少女は怪訝そうに問う。
 応えるように首を振って、顔を上げて、

「なんでも。さて、さっさと準備しちゃおうか」

 そう言った時には、いつもの雰囲気に戻っていた。
 少しの逡巡を経て、背の高い少女は、まあいいか、と作業を継続する。

「あいよ。……いやしかし、実際問題どうやって遅延を解消してるんだろうな」

 がちりとエフェクタを踏み、換装済みの高輝度LEDが灯るのを確かめて、背の高い少女が言った。
 筐体の右側から伸びたケーブルは、少女の抱えるギターに接続されている。水を払うような動作でカッティング。手の動きと同期して、コードが鳴る。
 やっぱり遅れないんだよなあ、と小さな声。

「んー、正攻法で何とかなる問題とは思えないからね。やっぱりアレじゃない、先読みとかそういう」

 小柄な少女が言う。
 彼女が抱えるのは、少し小型の4弦ベース。クワガタのような、と評されたこともあるその形状は、背の高い少女の持つギターと相似形だ。
 ぶうん、と唸るような低音を奏でる。散漫な、しかし規則性に満ちた音列。数巡してから、ギターが乗った。

「時間領域での解析と補完、或いは私のモーションからの予測、ってとこか。正直、もにょる部分が無くはないんだが」
「どこらへんに?」
「生音じゃねえ、って所にだよ。単純にさ」

 喋りながらも、手は止めない。
 流れるような低音と、それを寸断するような和音とが、会話の調子と相互に影響し合う。

「そうかなあ。完璧に再現されてれば、わたしは本物と同じだって思うけど」
「私は嫌なんだよ、そういうの。私たちのジャンルは何だ? 言ってみ?」

 ブルースのセッションのような演奏は、やがて技巧を削ぎ落とし―――或いは振り払って、スピードを増していく。
 加速するギターに追従して、ベースもまた、単線的に純化されていく。

「パンク」

 小柄な少女がそう言うと、背の高い少女は叩きつけるように弦を弾いた。
 大音量のフィードバック。空間を埋め尽くす暴力的な音の中で、小柄な少女は黙したままアドリブを開始する。

「そうだよ。パンクだ、魂の音楽だ! ……理屈っぽい負け犬の歌だよ。そして魂の歌でもある」

 轟音の中、吠えるように、誇らしげに放たれた言葉に、小柄な少女の口元が釣り上がる。

「今、魂って二回言った」
「二倍大切だってことだ」

 笑われた、と認識した少女もまた、同様に笑みを浮かべる。
 フィードバックが収まると同時に、ベースソロも終了する。室内に静寂が戻る。

「あー……いい演奏だったな」
「曲としてはどうなの、って感じだったけどね」
「いいんだよ。エモーショナルなプレイでパッションがエクスプレッションされただろうが。それがパンクだ、たぶん」
「たぶん、かあ……」

 軽口を叩き合うのと同期して、空間を構成していた物体が消滅していく。
 白く染まっていく世界の中で、背の高い少女は、将来の展望を口にしていく。

「まあ、曲を合わせるばっかりが練習じゃないだろ。幸いにして、合同練習の回数は結構多く取れてるんだしさ」
「そうだねえ。たまにはこんな感じでも、いいかな」

 部屋が構築された時と同様の、白い空間。
 向き合って立つ二人の他に、実体感を持つものはない。

「そうそう。時間は沢山あるって言っちゃうのもまあ何つーか、意識低いんだろうけどさ。私たちにはそんな感じのペースが一番合ってるんだよ、たぶん」
「たぶん、ねえ。折角いいこと言ってるのに、適当に終わらしたら台無しだよ」
「いい感じだったか? さすが私だな」
「だから、そういうのが駄目だって言ってんの」
「手厳しいなあ、まったく―――ってお前、何で泣いてるんだ?」
「――――――!」

 瞬間、背の高い少女の姿が消滅する。
 参ったなあ、反射的にやっちゃったよ、と呟いて、小柄な少女は涙を拭った。

「さて、どうしよっか……記憶を保存するなら、言い訳考えておかないと」

 今日の分の記憶を、彼女の人格を構成するプログラムに渡す。これで、彼女の連続性は保たれる。
 次に会う時、彼女は聞くのだろう。なんで別れ際に突然落ちた、なんで泣いていた、と。心配を顔に浮かべて、真剣に。
 応答を考えることには、少しの楽しさと、莫大な虚無感とが宿っていた。

「―――完璧に再現できてれば、か。本当に、馬鹿みたい」

 ごめんね、とひとつ呟いて。
 次の邂逅を思い浮かべ、少女は部屋をログアウトした。 

2012年11月12日月曜日

『雪もやを抜けて、君に』

 第十五回SSコンペ(お題:『一人漫談』)

 雪虫対策は、雪国に生まれた子供の宿命です。
 ……いきなり何を、とお思いでしょうが、特におかしなことは言ってませんよ。まあその、唐突ではあったかもしれませんけど。内容そのものはごくありふれた、自明と言ってもよいものでしょう。たぶん。おそらく。

 ―――ああ、雪虫をご存じない? それはいけません、これからする話に支障が出ます。では、簡単にご説明しておきましょう。
 雪虫とは、綿毛を纏った羽虫のような虫のことです。……ええと、そんな微妙な顔をされても困るんですが。詳しい生物学的解説がご所望でしたら、後でグーグル先生にでも尋ねて頂けると幸いです。本筋には関係ありませんので。さて、雪虫ですが。遠目に見ると、これが本当に雪と見紛うほど雪らしく飛びます。殊に、集団で風に舞う様子などは完全に雪のそれです。遠目で窓越しにとなれば、雪国が長い人でも騙されるんじゃないでしょうかね。
 
 彼らは大抵、昼過ぎから夕暮れ時にかけて現れます。冬の白い太陽を受けて、或いは夕暮れ時の茜色に紛れて色づく様子はそれなりに幻想的なものですが、しかし雪国の子供にそんな悠長な感慨を抱いている余裕はありません。
 先にも言いましたが、雪虫は虫です。羽虫です。群れになって飛びます。その群れの中に突っ込んだら、さてどうなるでしょうか?

 くっつきます。死ぬほど。顔面が羽虫だらけ、眼鏡を掛けていればまだ良いものの、裸眼であれば洒落にならない事態が発生します。鼻にも口にも雪虫が侵入、秋物のコートはまだらに雪化粧されます。
 まあそれはいいよ、仕方ない、と考えたとしましょう。顔面はまあ不快だけど気をつけよう、服についた虫は後でほろえばいいや、と。そして家に帰ったあなたは体や服についた雪虫を強く弾きました。

 死にます。すごい勢いで死にます。

 背中に背負った綿毛を血痕のごとく引きずって轢死します。雪虫の脆弱さには凄まじいものがあります。顔面も服も今や羽虫の死体まみれです。これは気持ち悪いし罪悪感がひどい、と気分が鬱ぐこと請け合いですね。
 よし判った、不殺を貫こう、とあなたは考えました。払ったら死ぬのだから、空気で弾き飛ばそう、と。優しく鈍角に、息を吹きかけたとしましょう。

 それでも半数ほど死にます。むしろ付着した時点で瀕死の個体が割と多数派です。
 どうしたって死ぬのかよ、と落胆したあなたの視界に白い雪が舞います。まさか、と思って天を仰げばそこには無数の雪虫。なぜ、死んだはずでは、そう思ったあなたは一つの可能性に思い至るでしょう。

 そう、髪です。優れた柔軟性とトラップ力の低さを兼ね備えた理想の離着陸場、それがあなたの髪です。うわあと思って手櫛をさせば白粉のような粉末と羽虫の死体。そう、生きたまま付着したとはいえ、触ればやっぱり死ぬのです。あなたは愕然としながら、頭を洗って彼らを根絶やしにするか、或いは彼らを全て頭から離陸させるかの選択を迫られることになるのです。
 離着陸場と化したあなたは失意の中でこう思うことでしょう。どうやって除去するかではない、付着させた時点で完璧に負けているのだ、とね。

 ……以上が、わたしがあなたに騎乗槍突撃のような体で突っ込んでしまった顛末ですね。自転車に乗りながら彼らを避けるとなれば、傘を前方に構える以外に道はありません。流線型のフォルムにすべすべの表面、正に雪虫対策のためにあるような形質です。多くの命を殺めずにいられたけれど、こうやって一人の人間を害してしまったことは残念でなりません。不幸な事故と言うほかないでしょう。これは一種の緊急避難と解釈されるべき案件なのではと考えます。
 そんな訳で許……さない。ええ、そりゃあそうですよね。ですがあの、できるだけ痛くしないで欲しいんですけれども。善処はする、はい。えっ、そんな表情には見えな―――。

2012年11月3日土曜日

『映画みたいに』

第十四回SSコンペ(お題:『真実』)

 小学生の時分に親が離婚して、ほどなく再婚。
 鏡映しの、対称な境遇。互いに一人っ子だった少年と少女は、妹と兄を得た。
 とはいえ、物心のついた小学生。無邪気に仲良くなれるほどには幼くもなく、割りきって振る舞えるほどには大人でもなく。互いに躊躇し、遠慮しているうちに、それが当たり前になってしまった。
 踏み込めばきっと何かが変わるはずだと感じてはいても、実際に動くには気が重い。そんな、どこか寂寞とした緊張感の漂う関係性は、両者が中学生に上がっても続いていた。



 変化の切っ掛けは、少年がレンタルビデオ店でふと見かけた、古い作品だった。映画にさほど興味のない彼でも、名前だけは知っている洋画。
 たまには古い映画でも観てみようかと、少年はその作品を借りて帰った。

 少年はとした空気の流れる作品だった。普段観ているアクションやサスペンスとは違うけれど、なるほど、悪くない。そんなことを思いながら観ていると、彼は傍らに人の気配を感じた。
 ふと視線を上げると、そこには妹がいた。彼女は立ったまま、目配せをする。兄が軽く頷くのを見て、少女は静かに腰を下ろした。二人分の重みをうけて、ソファが軋む。
 きぃ、とスプリングの立てる僅かな音。収まる家へ帰ると、居間で視聴を開始した。
 ゆったりと、すぐに静寂が戻る。

 小さな変化も意に介さず、映画は淡々と進み、やがて終わる。
 少年はデッキを操作しようとして―――傍らから注がれる視線の存在に気づいた。じっと見つめる、妹の目。
 少年は少し考え、リモコンを妹に渡した。彼女は会釈を返して、巻き戻し操作を行う。教会のシーン、男女の戯れの様子が画面に映ったところで、巻き戻しが止められる。
 静かに見入る少女を眺めて、少年は内心で微笑ましいものを覚えつつ、自室に戻った。 



 翌朝。寝起きの少年が目にしたのは、視界いっぱいに広がる、彫刻めいたはりぼてだった。
 昨日、映画で観たばかりの形。絶句していると、はりぼての後ろから少女が顔を覗かせる。

「おはようございます。ローマの名所が朝をお知らせします」
「おはよう―――まさか無生物に起こされようとは」

 想像もしなかった、とわざとらしく呟く。
 軽口に軽口で応じてみたはいいものの、果たしてこれが正しい対応だったのか、彼にはわからなかった。
 間違ってはいないはずの自然な流れに、浮ついたような雰囲気が付き纏う。

「兄さんの目覚まし時計、生きてたんですか」

 眉も動かさずに言ってのける。
 冗談なのか、突っ込みなのか、天然なのか―――少年が二の句を継げないでいると、冗談です、と少女は漏らした。 

「しかし、一晩で作ってのけるとは……ちゃんと寝たの?」
「睡眠よりも優先順位の高い消費方法があるのなら、夜の時間はそのように使われるべきです」
「そのハリボテが?」
「ええ、極めて高い優先順位を」

 そうなんだ、と適当に納得する。そうなのです、と適当に相槌をうつ。
 寒々しいようでもあり、しかし阿吽の呼吸とも評せそうな、奇妙な距離感。

「という訳で。手を、どうぞ」
「……はい?」
「ですから、手を。口の中へ」

 言って、ずい、とはりぼてを前に押し出す少女。
 威圧感に気圧されつつ、少年は右手をはりぼての口へと差し込んだ。
 それを見届けると、少女は僅かに微笑む。

「では、質問を始めます」
「あー、そういう流れ」
「他にも候補が?」
「てっきり、映画通りのリアクションを求められているものかと」
「成る程。ですがまあ、今回は」
「質問だったね。いいよ、言ってみな」
「はい。では―――」

 少しだけ間を置いて、

「兄さんは、私を疎んでいますか」

 眉ひとつ動かさず、声色を変えるでもなく。
 それは、無造作に飛び込んで斬り付けるような問いだった。

「―――まさか。大事な妹だよ」

 彼自身驚いたほどに、平常通りの声。―――或いはそれこそが、動揺の証だったのか。
 言って、ゆっくりと引き抜きに掛かった、その動きは止められた。
 はりぼての向こう、彼の手をしっかりと握る、彼女の手。

「嘘ではないにしろ、本当でもないらしいですね」
「……そもそもこういうのってさ、先にいくつか無難な質問してから最後にやるもんじゃないの」
「刑事ではありませんし、妻もいませんから」

 ―――本題から入った方が、無駄がないでしょう?
 そう呟く少女の顔には、一片の稚気すらも浮かばない。状況の奇矯さと合わさって、ひどく滑稽だった。
  
「仲の良い兄妹、だと思うけどね」
「傍から見ればそうでしょうね」
「……いずれ打ち解けられるものだとばかり思ってたよ」

 言いながら、目を瞑る。
 その場凌ぎだと、言う前から判っていた。

「私もそうです。いずれ、ゆっくりとでも本当の妹になれるものだと」

 ですが、と呟いて。

「そうはならないって、気付いたんです」
「遠かったから?」
「逆ですよ。何も言わずに傍に居られる関係が、心地良すぎたんです」
「そっか。僕もだ」
「ええ、知ってました」

 大仰な演出に、唐突なやり取り。
 派手な仕込みが齎したのは、最後の一歩を詰める切っ掛け。

「今日は何か、用事はあるの?」
「いいえ、暇ですよ」
「そっか。なら、話でもしないか」
「どうしてそんなことを?」

 とぼける少女の顔には、隠しきれない微笑が浮かんでいて。

「大事な妹と、打ち解けたいと思ってさ」

 するりと抜けた手が、少女の頭を撫でた。

2012年5月29日火曜日

『ログアウト』

第十三回SSコンペ(お題:『雨』)

 見渡すかぎり何もない草原の、少し盛り上がって丘陵となっている部分にわたしは座っていた。見渡しても、視界を遮るものは何もない。全周にわたって地平線が確認できる。焦土でもないというのに木の一本すらも生えない土地。そんな不自然極まりない風景が成立しているのは、ここが仮想空間であるがゆえだ。
 極限までオブジェクトを削った機能的なマップと、しかしプレイヤーを魅せようと作りこまれた空のテクスチャとの狭間。体験型3DMMOの世界を完全なものとするにはPCスペックの足りなかった時代に、それでも最善の体験をと構築された旧世代の楽園。わたしがいるのは、そんな場所だ。

 作り物の太陽が天球を移動するのを眺めながら、視界の端で徐々に人が増えていくのを確認する。催しを前に、続々と集まってきているらしい。そのままぼーっと天を見上げていると、何とも形容しがたい音を合図に、青白い魔方陣が中空に出現した。光の模様が上から下へと宙をなぞった後に、フードをかぶった少年のアバターが立っていた。
「お、早いじゃん。さすがは真面目さん」久々に聞いた声は、変わらず稚気に溢れていた。
 魔方陣から出てきた少年はわざとらしく手を振るモーションなどしてみせてから、わたしの隣に腰を下ろす。
「久しぶりだってのに、随分と感動のない挨拶ね。らしいって言えばらしいけど」咎めるように言ってみせると、ますます彼は笑みを深める。

 わたしたちがこのゲームを主戦場としていたのは、随分と前の話だ。二人はここでの繋がりをどこにも持ち越していない。示し合わせて同じ新作に移住することもなく、各々が好きなように違うゲームへと活動の場を移していた。
「おー、来てる来てる。あんなに過疎ってたってのに、こういう機会があれば余裕で集客できるんだ」彼がひさしのように手を掲げて、遠方を見渡しながら言う。
 倣ってわたしも目を凝らすと、草原の至る所に魔方陣の出現する様子が見えた。刻限が近くなってきたからか、現れる魔方陣の数は飛躍的に増加している。この瞬間だけ見れば、現役のゲームと言われても疑うものは居ないだろう。そのくらいの数だった。
「まあ、そりゃあ……ね。でもまあ、何度もできやしないでしょ、こんなイベント」
 新作が発売される度に長足の進化を遂げるMMO界隈の、数世代も過去の作品である。何のリソースも追加されなくなった世界で可能性を食いつぶす作業に熱中できる人種はそう多くはなく、昨今の過疎化はもはや、作品世界の成立すらも阻害する域に達していた。こうまで人の集まったことが、過去何度あったろうか。そんな問いすら浮かぶほどに、遠い光景に見えた。
「わからないよ? ……ほら、あるじゃない。現実世界にもさ。閉店セールと開店セールを繰り返す店っての」薄っぺらい微笑みを貼り付けて、彼が言う。
 つまりは、そういうことだ。わたしたちは、世界が終わる様を見届けるためにここにいる。
 
 草原がマップ端まで人で埋め尽くされた頃に、運営らしきアバターが現れた。運営サイドの発言に傾注するのも久々だな、と気を引き締める。
 挨拶もそこそこに、運営サイドからの感謝の言葉が述べられていく。長期間に渡ってプレイしてくれたこと、こうして最後のイベントに大勢で集まってくれたこと。どこかしんみりとした空気が漂う中、新作に移っても変わらぬご愛願を、と〆た辺りはさすが商売といった風情で、少し笑った。
 やがて、話も終わる。一種異様な緊張が、俄に場を満たしていくのを、HUD越しに感じた。
「さて、最後に一つ、サプライズをご用意しております。尤も、内容は事前にリークされてしまっているようで……だからこそこの人数、ではあるのでしょうが」言葉を切ると、運営のアバターはゆっくりと時間をかけて草原を見渡し、
「―――本当に、最後のお別れです。ごゆっくりお楽しみください」そう言い残して、消滅した。
 直後、世界の崩壊が始まった。

 誰が企画したのか、正式なサービス停止に伴うデータの破棄に際して、徐々に落とされていく仮想世界の崩壊を内部から眺めてみようという、頭の螺子の外れた催しだ。アバターの維持に必要なデータだけは最後の最後まで保護され、重要度の低い情報から順に、マトリックスの向こうへと沈んでいく。どんなものが見えるかは予測不可能、最後に相応しい自棄気味のアトラクション。
 2進数で表現された世界の欠落は、すぐに視覚の異常という形で現れた。抽象画のような描像が宙に浮いては消え、景色が遠方から、霧のように輪郭を失っていく。わたしたちは少しでも長く正常な領域に留まることを選択したが、進んで世界の端に消えていく者たちも少なくなかった。どこへ行けば面白いものが見られるか、どこで終わりを観測したいか。人の数だけ、思惑があるのだろう。
「いやー……予想してたつもりだけど、これはすごい。イカれてるね」柄にもなく、本当に感嘆している風な声が隣から聞こえる。からかってやろうかとも思ったが、度肝を抜かれているのはわたしだって同じだ。
「テクスチャは殆ど滅茶苦茶ね。あ、魔法撃ってる連中がいる。あーあー、バグっちゃって……」見慣れたはずの魔法エフェクトが歪む様に、当事者も野次馬も歓喜に湧いている。もはや狂騒的と言うほかない盛り上がりっぷり。
「葬式と通夜と告別式が一緒に来たようなものだからねえ。テンション上がっちゃうのも仕方ないでしょ」心底楽しげな声色で少年が言う。どうやら調子を取り戻したらしい。
「ずれてる上に不謹慎」横目で伺うと、嬉しそうに笑う彼の表情が見えた。わたしたちはそのまま、動かずに崩壊を眺めていた。

「――――――雨?」
 暫くして、もはや正常な部分を探すほうが難しくなった世界に、誰ともない呟きが響いた。見ると、空から無数の線条が降り注いでいる。何がどうなった結果の描像かは判らないが、空間を埋める黒い筋はなるほど、雨に見えた。気づけば、大勢の人間が空を見上げていた。
「確か、新作では天候の再現も売りにしてるんだっけ?」少年が天を見上げたまま呟く。
 快適なプレイのために多くを切り捨てざるを得なかったこのゲームに、リアルタイムで雨粒をレンダリングする機能など備わっていない。見られるはずのなかった光景に、誰もがただ、空を眺めていた。
「最後の最後に仕様外の天候エフェクト、ね。何というか、出来すぎ」
 そんな言葉が口をついて出たものの、わたしは何かしら、衝撃を受けていたように思う。老いた世界の最後の徒花。力を振り絞った果ての、異常に蝕まれた末の奇跡。あまりにも読み込みが過ぎる、とは思うものの。
 皮肉を好む彼にしては珍しく、少年は追随してこなかった。

 それから、どれだけの時間が経ったのか。天も地も白く染まり、さながら合成写真用のスタジオのような様相だ。情報の少ない部屋に人間を閉じ込めると精神に良くないとは聞くが、なるほど、これはつらい。耳を嬲るホワイトノイズと、雨のような線条の動きだけが、世界がまだ終わっていないことの証左だった。
「おーい、まだ生きてる?」隣のあたりの空間から、ノイズでひび割れた声が聞こえる。
 もはや視覚で他アバターを捉えることはできない。代わりに、この空間のあちこちで、声を上げて残留を主張する者たちがいた。わたしと彼もその一部だ。定期的に声をかけ合っては、互いに存在を確認する作業。
「生きてる。何となく周囲の声も減ってきた感じだし、そろそろ終わりが近いのかしら。そうでなければ」
「僕らの聴覚系が死に始めたのかもね」途中で遮って少年が言う。「まあ、冷静に考えれば両方かな。せっかくだし、最後の最後まで見てみたいけど」
 いつになく真面目な声色で喋る彼に引っ張られたのか、何なのか。柄にもなく、感傷的なことがしたくなった。
「―――ねえ。新作でまたパーティ組まない?」何気なく漏れた、風に聞こえたはずだと思う。無言が続く。顔が見えないだけに、俄に不安感に襲われる。
 今のなし、とでも言おうかと考え始めた頃合いに、「なんでまた」と、驚いたような声が聞こえた。よくよくキャラの崩れる日だ、と内心笑う。
「……じゃあ、雨が降ったから、ってことで」
 言い終わると同時に、視界が真っ白に塗りつぶされる。一方的な約束を最後に投げて、わたしたちは世界の終わりに立ち会った。

2012年5月8日火曜日

『眠る祈り』

第十二回SSコンペ(お題:『鍵』)



「……ん? なんだこれ」

 数年ほど放置していた机の引き出しを整理していて、見覚えのない鍵をみつけた。昨今主流のディンプルキーではなく、絵本に出てきそうなほどに単純な形をしたピンタンブラー錠だ。おそらく真鍮製だろう、華奢で玩具めいた鈍色の鍵。まともな扉や引き出しの鍵には見えないし、そもそも私の部屋に鍵をかけられる場所なんてない。対になった南京錠でもあるのかと思い、引き出しの奥をさらってみたけれど何も見当たらず。
 素性不明の鍵。唐突に湧いた謎に、片付けで疲弊していた私の脳が俄に活気を取り戻す。有り体に言えば現実逃避、だが構うまい。どのみち放置していても気になって片づけが手に付かないこと請け合いだ。よし理論武装完了。

「開ける対象の見当たらない鍵。こいつは―――事件の香りでスよ、金田一君」

 そういうことになった。





「―――という訳です。どうですかワトソン君、この名探偵に力を貸してみる気になりました?」

「あのな、それで俺のところに来るのは絶対に間違ってるからな。今後はそーいうの慎めよ。じゃあな」

 玄関扉を少しだけ開き、心底嫌そうに呟く我が幼馴染。
 せっかく訪ってやったというのに素気なく扉を閉めようとする彼の額に、体重を込めて鍵を突き刺す。軽くめり込む感触と漏れ聞こえる悲鳴をうけつつ手首を回転。ぎりり、と皮膚を巻き込んで鍵がまわる。同時に飛んでくる右拳が私の額を強打、クロスカウンター気味に殴り飛ばされた。よろけて数歩、たたらを踏む。

「……何もグーで殴るこた無いじゃないですか? 仮にも乙女ですよ」

 痛いなあ、と額をさすりつつ私。

「金属製の鍵で額刺されるよりは万倍マシだよ馬鹿が。頭壊れてんのか」

 額を押さえて扉にもたれ、絞りだすような声で幼馴染。

「いや何、ちょっと心の部屋を覗いて差し上げようかと」

「病院行け。その足で行ってこい」

「本当の君は言っていました。美人で優しい幼馴染の探求に付き合ってあげたいけど僕ツンデレだから素直になれないよぉ、とね」

 ふふん、と無い胸を張りながら言ってみせる。幼馴染が前かがみに項垂れる。

「変わった色の救急車とか呼んだ方がいいのか? 自分で行けないなら迎えに来てくれるんだぜ。知ってたか?」

 頭に手をやり、ため息をつきながら。言葉は依然として荒いものの、その気勢が萎えていくのを敏感に察知。ここは押しの一手と判断する。

「まあまあお茶でも飲みながら計画を練るとしましょう。麦茶でいいですよ。お茶うけは甘いものだと私が嬉しい」

「傍若無人って言葉を辞書で引いて恥を知って何だかんだで死ねよ……本当に何なんだよお前……」

 言いながらも扉を開き、嫌そうに私を招く彼。ええ、信じていましたとも。

「では失礼、お宅拝見」





「事情はさっき説明した通りなんですけど、何か疑問点とかあります? あ、相変わらず良い米使ってますね」

「……喜んで茶漬け食ってるって事実に甚大な疑問を抱いてるところだが」

 茶碗に盛られたお茶漬けをさぱさぱと流し込んでいると、幼馴染の胡乱げな視線がびしびしと刺さる。しかし米はおいしい。

「出されたものは食べる主義ですから。米系ならおはぎとかぼた餅とか出してくれても、とは思いましたけど」

 言うや否や、ばん、と卓袱台に叩きつけるようにお煎餅の乗った小皿が出現した。ありがとうと断ってから頂く。ぽたぽた焼きはやはりうまい。

「出しておいて言うのも何だが、煎餅をおかずに茶漬け食ってる絵面は精神に悪いな」

「砂糖醤油で味付けした米料理なんだし、おかずと言っても過言ではないと思いますけど」

「いやその理屈は……まあいいや。で、何? 錠前を探してるんだったか?」

 心底どうでもよさそうな幼馴染の声。一旦箸を置き、神妙な顔を取り繕ってから喋ることとする。

「ええ。引き出しの奥にわざわざ仕舞っておくほどの鍵、たぶん何か大事なものを開けるためのものだったとは考えられませんか」

「で、なんで俺」

「私の家にないなら貴方の家かと。いやほら、私他に友達いませんし。どころか知人すらいませんし」

 テンポよく進んできた会話が、途端に勢いを失う。あ、と思った時にはもう遅い。

「……あのな。そういうことをな、笑顔で言うなよ」

 そして流れる気まずい空気。

「あのー、そうマジになられると困るんですが」

「茶化せる話でもないだろ?」

「笑わなきゃどうしようもない話だとも言えますね」

 しばしの沈黙。ふう、と溜息が漏れる。

「―――わーったよ。探してやる。もしかしたら俺も関わってたかも知れないんだしな」

 思惑通りに―――あるいは思惑を汲んでもらって、場が弛緩する。

「さすが話が早い。では早速行きましょうか」

「とりあえず、可能性があるのは……俺の部屋か? 無ければ物置だな」

「ええ。ではでは、レッツ家探し!」





「隊長、ベッド下に桃色本というのは如何にも捻りが足らないのではありませんか! もっとこうフェイクとか二重底とか―――」

 部屋にお邪魔してダッシュ一番、保存場所の埃っぽさにも関わらずいささかも埃に白んだ様子のない書籍群を引きずり出して叫ぶ。

「軍曹、軍法会議モノの独断専行は即刻止めて任務に戻りたまえ」

 こちらを見ようともせずに告げられる言葉。平坦なイントネーションは殺意を乗せるのに最適なのだなあ、と思い知る。

「サー! エロ本戻します、サー!」

 速やかに本を戻す。埃が溜まってないってことは日常的に使用を? とか訊いてみたい欲求もないではないけれど、しかし猫死にするのは避けたいところ。

「よろしい。……それなりに片してあるし、机の中とか見ても仕方ないだろ。探すんなら押入れの中かな」

「えーっと、古くて捨てらんないものとか箱に小分けして収納してるんでしたっけ?」

「解説台詞ありがとう。奥に行くほど古いはずだ。手前から見てみるか」

 そんなこんなで、錠前を探す。小中の卒業アルバムの寄せ書き欄を見てはため息をついたり、愛着のある玩具の類を見つけては郷愁に浸ったり。懐古の念に浸り初めてしばらく、ちょうど小学校の頃の地層へと到達したくらいの段階で、私たちは目当てのものを発見した。

「―――あ、これ」

 幼馴染の手には、両掌に乗るほどの小さな木箱。蓋と箱を結ぶように華奢な南京錠がひとつ渡されていて、そのくすんだ色味は件の鍵と瓜二つだった。

「おお、大正解っぽいじゃあないですか。早速開けてみましょう」

 そう言って伸ばした掌が空を切る。捧げ持つように箱を退避させる幼馴染。え、と非難がましく視線を向ければ、あからさまに顔を逸らしてくれる。

「……何ですかそれ。イジメですか」

「いや、違う。違うんだが……中身が何だったのか思い出してな」

「嫌がるようなものだったと?」

「端的に言えば、気恥ずかしい」

 言いながらも、私の掌に木箱を載せる幼馴染。とりあえず、渡してはくれるらしい。

「……で結局、開けちゃっていいんです?」

「ああ。でも俺が帰ってからにしてくれるか。流石に過去の恥と対面するのはなあ」

「しかしOpen Sesame」

 即解錠。かちり、と嘘みたいに軽い手応えを残して蓋が開く。中には便箋が一枚。

「おいやめろ―――」

「この手紙は早くも読解ですね。えー、なになに……『お前がこの手紙を読んでる今、きっと俺はそこには居ないんだと思う』―――うおお」

「音読とか何考えてんだよ……殺す気か」

「いやいや茶化してすまんこってす。でもこの書き出しは流石に狙いすぎなんじゃあ……」

「中学生だったんだよ! 多感な時期だったんだよ! 察せよ!」

「まあいいや。ところで引越しか何かのご予定でも?」

「……ああ。それ書いたのがちょうど夏休み前だったか。休み中に居なくなる予定だったんだよ。立ち消えになったがな」

「へえ。それで自分のいなくなった後に読ませるメッセージを……青いですねえ」

「浪漫に溢れてたと言えよ。もしくは殺せ」

 そんなこんなで、幼馴染の家を追い出される。恥ずかしさが臨界に達したとみた。





 帰り道、歩きながら便箋に何度も目を通す。私を残していくことへの謝罪と、過ごした時間への郷愁。そして、激励。

「あんたは私のオカンですか、って感じですねー……。まあ保護者みたいなものでしたけど」

 受け取るべき者が変質して、宙ぶらりんになった祈り。直接には意味を持たないはずのそれら言葉は、しかしなお、私の胸をつよく揺さぶるものだった。面と向かっては絶対に言えないであろう、真摯な思いやりだけが並ぶ手紙。
 面映く、どこか口惜しい。気恥ずかしくもある。どこか負けたような感触すら。どうしたものかとしばし考えて―――閃く。

「……うーん。箱と鍵、どういうのにしようか」

 封じ込めることでしか伝達できない、青すぎる真っ直ぐな想い。目には目を、の精神で、私もまた鍵をかけよう。どこに隠しておけばタイミングよく発見されるだろうか。少なくとも、この件を互いに忘れてからが宜しいだろう。ふと思いついた悪戯に、稚気やら何やら、雑多な感情を混ぜ込んでいく。
 解かれた時、私たちがどうなっているのかは知らないけれど。封をされた言葉が、何かしら動かすことを願って。

2012年4月17日火曜日

『いだいなわたし』

第十一回SSコンペ(お題:『桜』)



「ねえ、今日はどんな空?」

 西陽の差す病室で、少女は少年に問い掛ける。ベッドの上で背を起こした体勢で、両目を瞑ったまま、目蓋を透かすように空を見つめながら。

「晴れてるよ。とても高く見える」

 少年は少女の方も見ずに、車椅子を組み立てながら応じる。へえ、と少女の楽しそうな声。

「風は?」「少し吹いてる」「気温はどう?」「暖かいよ」

 テンポよく重ねられる応酬には淀みがなく、既定事項の確認といった趣すら漂う。

「―――理解したわ。私が神に愛されてる、ってことを」

 依然として目を瞑ったまま、少女は勝ち誇るがごとく言い放つ。

「……神に愛されてたら失明はしないと思うけど、ね」

 そう呟く少年の後頭部に、直後、患者用のスリッパが突き刺さった。

「はん。偉大な者には試練が立ち塞がるものだっつーのよ。それも乗り越えられる範囲で最大のものが、ね」

「見えてもないのによく当てるね……」

 頭をさすりながら零した言葉に、少女は嗜虐的な笑みを浮かべ―――すぐに真顔に戻る。

「あんたの頭を狙うくらい、寝てたって造作も無いことだわ。そんなことより、私いま凄くいいこと言ったんだけど」

 腰に手を当てて、詰問するがごとく。
 少年はひとつ笑うと、組み上げた車椅子を杖に立ち上がり、

「はいはい、感銘を受けました。じゃあほら―――そろそろ、確認しに行こうよ。君の偉大さを」

 言って、少女の手をとり、車椅子に導いた。
 少女は一瞬だけ躊躇いを見せて、しかし次の瞬間には不敵な笑みを形にして、

「ええ、偉大なる私の再起に同席させてあげる」

 確信に満ちた響きで、そう言った。



 両脇を木立に挟まれた林道、舗装こそされていないものの、整備された歩道を、車椅子が行く。

「遅いわねぇ。もっと速度出せないの?」

 眉根を寄せて、少女が呟いた。
 後ろで押す少年は僅かに苦笑し、

 「出せないことはないけど、危ないから」

 と、同じペースで歩を進める。

「そ。じゃ、安全運転で急ぎなさい」

 目を瞑ったままで、少女が言う。硬い口調の中に、僅かに稚気が覗く。証明するように、口元には僅かな笑み。
 少年は満足げに微笑むと、少しだけ足を早めた。お、と少女の呟きが漏れる。呼応するように、また僅かに増す速度。おお、と少女の歓声が上がる。どちらともなく、笑い声。
 がたがたと揺れながら、じゃれあいを乗せて、車椅子は道を行く。


 
 林道を抜けた先には、広場があった。さして広大ではないが、中央に植えられた大樹が否が応にも印象を惹きつける、それは樹を中心とした空間だった。
 樹―――桜だ。満開の桜が、穏やかな風に花びらを少しづつ散らしている。

「安全運転とは言いがたいものだったけれど、ご苦労さま」

 腰をさすりながら、恨めしげに少女が言う。

「どういたしまして。とりあえず、思ってたよりはずっと速かったでしょ?」

 柳に風、といった風情で受け流す。
 ふん、と鼻で一つ笑って、途端。少女は稚気を捨てて、憔悴を纏う。

「ええ、びっくりしたわ。―――お陰様で、覚悟を決める暇もなかったくらい」

「だろうね」

 火の消えるようにしぼむ少女に、しかし少年は対応を変えることはない。
 そんな彼だから、少女は。

「……ああ、苛立たしいわ。その何もかもわかったような顔」

「見えてないでしょ?」

「寝てたって判るわよ、あんたの表情なんか」

 徐々に、火が戻る。
 少年は笑みを深める。
 少女はふんぞり返って、玉座のごとく、車椅子に身を沈めた。

「手術の成功率……見えてるかどうかは、五分五分。だったら、どうせなら最初に見るものはとびきりドラマチックで美しくないと」

 少年が、歌うように諳んじる。
 ああ、と少女は頷いて、ゆっくりと目蓋を開く。

 少女が光を失ってから、いつか少年に向かって嘯いた野望だ。
 少年が言うほどにも、少年に嘯くほどにも、少女はきっと強くない。目を開けずにいれば希望は存置される。そんなことを真面目に考えてしまう程度には、弱い。
 ……でも、脆い自分が身をもたげるたびに、繕った自分が弱い心を鎧う。かくありたいと思ったイメージが、彼のそばにいると、手の届くものに見えてくる。
 与えられることの救済。救い手は彼だった。

 だから今、かつての理想を、一歩超えて。

「失明してから何年経ったかしら。私たち、成長期だものね」

 少女の呟きに、少年が怪訝な顔をしてみせる。
 怪訝な顔―――ああ、こんな顔をしていたのだったか、と記憶との齟齬を噛み締めて。

「最初に見るものはとびきりドラマチックで美しくないと―――宣言通り。あんた、桜に映える顔をしてるじゃない」

 偉大なものに、きっとなる。

2012年3月20日火曜日

『輪唱』

第十回SSコンペ(お題:『(書き手の)信仰』)

 雲に翳る荒野、人のまばらな大地に、一人の少女が立っていた。
 少女は何をするでもなく、目を瞑り、佇んでいる。その姿を認めて、周囲に居た人々が集まり出す。彼らはその表情に期待の色を浮かべ、誰が仕切るともなしに、少女を中心に円座を組み始めた。人だかりは意思を持つがごとく拡散し、各々が少女と直接対峙できるような、少女を中心とした大きな輪が形成されていく。
 やがて、声無き期待が膨れ上がり、うねりとなって場を覆った。昂ぶりが最高潮に達する頃、集う者たちの求めに応じて、少女は物語を唄い始める。それは、僅かな差異を織り込みながら繰り返される恋の唄だった。五指で足りる程度の変奏しか持たない物語。聴衆は胸をふるわせて聴き入る。没入と追体験とに支配された、それは茫洋とした夢のような一時だった。
 ―――唄が終る。静寂が空間を満たす。終わりを迎えた後、少女は決して続きを唄わない。同じ唄を繰り返しても、物語の終幕、その先は決して誰も耳にすることがない。終幕の存在を解する聴衆たちは、だから語らう。残滓を味わうように、各々が夢を想起しながら、口々に。解釈、感想、批評。交わされる言葉に、確かな愛着が息づいていた。
 静かな熱狂に包まれて、夜は過ぎていく。
 
 穏やかな狂騒、熱を持った停滞。繰り返される物語と、それを中心として為される交感。幾夜を満たしてきたそれらはしかし、永遠のものではなかった。
 ―――続けられるという事実と、続けたいという想いとの間には、無間の空隙が広がっている。確かな実体を持たぬ物語を投影し、像を成すためのパースペクティブ、世界の枠組み。それは人の数と同じだけ存在し、しかも刻一刻と変化を遂げる性質のもので、だから彼らには、初めから永遠が与えられていた。だけれど、砂を食むように褪せた物語を咀嚼し続けることの空虚さに、或いはもっと単純に、新たな少女物語の出現に……彼らの心は乖離を志向した。
 唄う少女が、唄える少女が一人であれば、それは世界の全てで在れたのかもしれない。実際には、彼女たちは日を追う毎に増えていき、世界には刻々と唄が増えていた。語られる世界は偏りをもって分割され、その配分もまた時と共に移ろう。盛衰はその周期を狭め、加熱と冷却はもはや同時にすら見えた。
 一瞬で過去に追いやられた唄の周りには、僅かな者だけが残された。
 
 顧みられることのない唄。狂熱の残り火すらも絶えた、その後に残された者たちは、やがて歌い始めた。かつて聴いた物語の続き、変奏、補完。捨象を経て純化へと至る、畸形じみた産物すらもそこには在った。或いは郷愁、或いは哀悼。個々の感慨を乗せた歌は狂熱の残滓を掬い取り、人の輪はやがて、再びその半径を増してゆく。唄う少女を中心として始まった輪は、やがてその外縁に新たな輪を形成するに至った。フラクタルは重層し、やがて最外縁は彼方へと遠ざかってゆく。継嗣は変質し、唄は歌を生む。ゆるやかに広がる熱は、外から来た輪の外縁と接し、融けていく。
 バリエーションが世界を満たし、遂に人々は―――唄を忘れた。
 
 それでもなお、少女は原初の唄を唄い続ける。
 聴衆の減じた小さな輪に、しかし少女は何らの感慨を見せることもない。たとえ聴く者が絶えようとも、なお。そしてまた、聴衆の莫大な増加にも同様に。栄枯の過程に少女が何を想ったかなど、余人に解ることではなく。そも、彼女は何かを想っていたのか、すら。
 だから、とも言えるし、それでも、とも言える。うたわれたものの変奏が、いつだって世界を作ってきた。
 ―――だからこそ、この物語の結末は、そのようにある。

2012年3月5日月曜日

『なんでもなく』

第九回SSコンペ(お題:『卒業』)

 
「卒業、おめでとうございます」

 教室で名残を惜しむ会話を交わし、最後にと部室へ私物を回収しに向かった少年を出迎えたのは、後輩からの祝辞だった。今日は卒業式で、部室には誰もいないはずだ。だというのに、少女はいつも通りの位置に座り、少年の訪れを待っていた。扉を開けたその体勢のままで、少年は暫し硬直する。数秒の間を置いて、少年は口を開いた。

「……え? いま、何と?」

 予期した反応からずれた物言いだったのか、少女の表情が呆れを帯びる。全く、と腰に手を当て、軽く首を振る。

「何って……こっちの台詞ですよそれ。何が何ですかって話です」

「ああ、いや―――お前の口から祝福の言葉が出てきた、という事実に脳が拒否反応をな。すまん」

 真顔を作って、少年は言う。だが、口の端が僅かに吊り上がっていることに、少女は気付いた。ため息をひとつ、これだから、と呟きを漏らしつつ、しかし、少女の口の端もまた、同様に吊り上がる。

「どんだけ失礼ですか。……全く、最後くらいは真面目に送りだしてあげようという後輩心、たったいま残らず消滅しましたよ。ここから先は通常営業です」

 機嫌の悪い風を装い、そう告げる。対して少年はにやりと笑い、

「悪いな。最後まで俺とお前はこんな感じだ」

「ええ、そのようですね。不本意ながら」

 少女もまた、応えるように笑みを浮かべた。皮肉げな笑みが対称の像を結ぶ。どちらともなく、笑い声を漏らした。

「まあ、これで最後だ。不本意かも知らんが、我慢して付き合ってくれ」

 少女と向かいの座席に腰を下ろし、少年が言う。

「嫌々付き合ってあげるとします。わたし、優しい後輩ですから」

 そう言いながらも、少女の声から、繕った不機嫌さは失せていた。

「優しい後輩を持てて幸せだなあ、俺」

「でしょう? 光栄に思うといいです」

 くくく、と押し殺した笑みを少年は漏らす。ふふふ、と少女も追随する。飽きるほど繰り返してきた日常の、最後の一回が始まった。暫しの歓談。最後とはいえ、交わすのはいつも通りの馬鹿話。
 
 
 
 
 
「―――日が暮れてきたな」

「ですね。随分喋ったものです」

 部室の窓からは夕日が射し、二人の影は部室の壁際に達するほど。そろそろ校舎から追い出される時間帯。どちらともなく、居住まいを正す。こほん、と咳払いをひとつして、少年は真面目ぶった体で告げた。
 
「さて。最後になった訳だが、何か言っておくことはないか。恨み言でも何でもいいぞ」

「いえ、特になにも」

 即座に、無表情に言ってのけた。少年の体が僅かに傾ぐ。

「……そうか? いやまあ確かに今生の別れって訳じゃあないが、ちょっと寂しい感も否定できないところだ」

 その言葉に、少女は大きくため息をつく。

「ドラマティックな別れの演出を台無しにしてくれたのは何処の誰ですか、全く。最後にそんなこと言うくらいなら大人しくお芝居に乗ってくれれば良かったんですよ」

 じっとり、と音の出そうな視線で睨めつけて、そう言った。道理だな、と少年は笑う。全くもう、と少女は頭を振る。ややあって、少年は真面目な表情を作り直し、こう告げた。
 
「―――なあ。俺とお前、こんな風に馬鹿みたいなこと喋ってばっかりだったけどさ。こんな風になった切っ掛け、覚えてるか?」

 真剣な質問だと見なしたのだろう、少年の問いかけに、少女は僅かに逡巡し、

「……いいえ」

 遠慮がちに否定を返す。少年は笑みを浮かべて、

「俺もだ」

 胸を張りさえしながら、誇らしげに言ってのけた。少女の表情が、呆れに染まる。いよいよ、少年の笑みは濃くなるばかり。

「思わせぶりなこと言っておいて、それですか」

「違う違う。始まりが曖昧だったんだから、終わりもそんな感じにしておくのが俺たちらしいかな、ってさ。特別に何かする、ってんじゃなくて。明日もまた会うかのように、ってな」

 ああ、なるほど、と少女が呟く。だろう、と少年が笑う。
 
「終わりくらいハッキリと、とも言えそうなものですけど……まあ、いいでしょう。先輩の顔を立てておいてあげます」

「重ね重ね、いい後輩を持てて幸せだよ、俺は」

「でしょう? もっともっと感謝してもらいたいものですね」

 言いながら、少女は机に掛けていた自分の鞄を背負う。
 
「帰るのか?」

 少年の問いかけに、少女は少し驚いた風に目を見開き、そして優しげに微笑して、

「一緒に帰りましょうか?」

 少年はといえば、にやりと笑みを浮かべ。

「一緒に帰ったこと、無かったろ?」

 そして、どちらともなく、笑い声を漏らした。

「……ふふ。帰るのか、って訊かれた覚えもありませんけど」

「まあ、最後の一回くらい、何か記憶に残ることをしておいても良かろう」

「おや。舌の根も乾かぬうちに、というのはこの事ですね」

「……察しろよ。多少は寂しいんだ、俺も」

「その寂しさの半分くらいは、わたしも寂しいですよ」

「冷血漢め」

「女ですけど」

 そして、笑い声。
 いつも通りの日常は、少しの変奏を残して、夕闇に消えた。

2012年1月30日月曜日

『かけらむすび』

第七回SSコンペ(お題:『雪』)



「行ってきまーす」

 家の中に声を投げて、玄関を押し開ける。途端、外気が勢い良く吹き込んできた。
 う、と唸って身震いする。午前7時半の空気は氷点を下回っており、外気に触れた瞬間、私は肌が張るような感覚を覚えた。
 しばし無言で佇んだのち、薄く開いた玄関扉を元に戻して、玄関に立ち尽くす。
 やや暖かさを取り戻す空気に、少しほっとする反面、こういうことすると却って後の寒さが強調されるんだよなあ、とため息をつく。

「せめて、二学期の一限くらいは回避できるようにするのが人情ってもんでしょうが……。雪国の大学なんだからさあ、そこんとこはもうちょっと配慮を……」

 全く、何が悲しくて早朝から大学に登校せねばならないのか。進学が決まった頃には、これで寒い朝は寝ていられる、と何も知らず喜んだものだというのに。
 家未満・外気以上の微妙な空気の中、体を震わせながらそんな呪詛を吐いていると、

「ごめんお姉ちゃん! 待った?」

 妹がどたどたと足音を鳴らして、私の傍へと走ってきた。
 上下のスキーウェアに、分厚い手袋。そういえば小学校にもスキー学習はあったなあ、と考える。

「んーん、いま出てきたとこ。じゃあ、行こっか」

 小さな妹の手を引いて、私は改めて、玄関の扉を押し開けた。


***


 妹と連れ立って、早朝の冬道をゆく。
 昨晩はそれなりに雪が降ったのだろう、あちこちの家に雪かきをする人の姿があった。
 道すがら、ご近所さんと挨拶を交わしたり、妹の友人たちが合流してきて賑やかになったり。
 保母さんみたいだなあ、などと思いつつ、姦しい少女たちの声に引き摺られるようにして歩を進めた。

 そんなこんなで、ある家の前に差し掛かった時。
 妹とその友人たちは唐突に歩みを止めると、その家の車庫に向かって走っていった。
 止める間もなく、彼女らは車庫のシャッターを開きにかかる。
 あまりの展開にしばし呆気にとられていたものの、これは止めねばと思い直し、小走りに駆け寄ろうとしたのだが、

「ああ、いいんですよ。家の者もわかってますから」

 家の持ち主だろう、柔和そうなおじいさんが戸口から声を掛けてきた。
 よっぽど困惑した表情をしていたのだろうか、お爺さんは微笑みながら、目で車庫の方を見るよう促す。
 見れば、彼女らは車庫の中から、膝丈程度の雪玉を運び出していた。

「……もしかして、雪だるま?」

 そう呟くと、彼女らとお爺さんはにっこり笑って、頷いた。


***


 道連れがひとり―――いや、胴体だけだから半人か―――増えての、雪中行軍。
 なるべく綺麗な雪だけを巻き込もうとしているのだろう、新雪の上を選んで代わりばんこに雪玉を転がす一団の、少し後ろをついて歩く。
 私が小さいころもこうやって登校したことがあったなあ、と郷愁に浸りつつ。

「……でも、どうして雪だるまを預かってもらってるの?」

 そう訊くと、彼女らは顔を見合わせてから、楽しげに経緯を説明し始めた。
 事の顛末を聞いて、納得する。

 曰く、道路で雪だるまを転がすのは危ないから、車の通らない道だけでやりなさいと言われた。
 曰く、そうなると雪だるまを道に放置しなければならなくなるが、道端の雪だるまは悪戯の格好の餌食である。
 曰く、雪玉を途方に暮れていると、例の家のお爺さんが気を効かせて、車庫を開放してくれた。

 これも町内会の連携の成せる業なのか、ならばウチでも、と同じように雪だるまを保管させてくれる家がもう一軒できたのだという。
 こうして、彼女らは学校への行きと帰り、二箇所の家の間を雪だるまを転がしながら歩くことになったらしい。

「そっか。……でも、放課後にでも空き地に繰り出して転がしてやれば、すぐにでも完成させられるんじゃない?」

 学童用の歩道で結ばれた二軒の間は、決して長くない。加えて、今年の雪は乾いている。
 毎日転がしているとはいえ、ぼた雪でもなければ、短距離で大きくするのは難しいだろう。
 そんなことを考えての提案だったが、彼女らは一様に首を振り、

「ううん。ちょっとずつ一緒に大きくなるの、楽しいから」

 異口同音に、そのようなことを言った。

「なるほど。……なるほど」

 返ってきた言葉に、唸らされる。

「お姉ちゃん、ちょっと感心しちゃったぜ」

 軽口めかして言ってはみたが、本当に、感心したのだ。


***


 それからも、彼女らの雪だるま作りは続いた。
 毎日一緒に登校していた訳ではないけれど、徐々に大きくなっていく雪だるまを見ることは、私の楽しみにもなっていた。
 膝丈だった雪玉が腰の大きさになり、胸の近くまで到達する頃には、雪の季節は半分を折り返したところまで来ていた。
 半身はこれで完成、として。そこからまた、小さな雪玉を転がす日々が続く。
 大きな雪玉を転がす光景は、当初こそ通行人に驚きの反応をもって迎えられたものの、毎日のように繰り返すうち、朝の風物詩として微笑ましく見守られるようになった。

 そんなふうに日々を重ねて、二つ目の雪玉が彼女らの胸ほどに達する頃には、季節は春になりかけていた。
 もう冬ではない、と主張する、暖かな日差し。
 残雪の照り返しが目に痛い、そんな晩冬、或いは初春の日。
 遂に、我々の(心情的には私も一員である!)雪だるまがパイルダーオンされる時がやってきた。

「……で、本当にお姉ちゃんがやっちゃっていいの?」

 やや小さい方の雪玉を抱えながら、問うてみる。
 一員だ、などと言ってはみたものの、私自身は一度も転がしに参加していない。
 気恥ずかしかったから、というのもあり、彼女らだけの手で完成させるべきだと思った、というのもあり。
 動機はどもかく、最後の最後に私の手を入れてしまうというのは、いかがなものか。

「わたしたち、届かないし」

 うんうん、と一斉に頷く少女ら。

「うん。落として割っちゃったら嫌だもんね」

 痛そうだもんねー、と飛び跳ねながら言う。
 頭が割れたら大変だ、と口々に。

「お姉ちゃんなら安心だもの」

 そして止めに、この台詞。
 お姉ちゃんはすごいもんねー、と誉めそやす少女らを前にして、これ以上固辞することが、誰にできようか。
 
「……左様で」

 ハードル上げてくれるなあ、と嘆きつつ、少しでもかっこよく首が座るよう、私は微調整の構えに入った。


***


 完成した雪だるまは暫くの間、近所の名物となった。
 元より、雪玉を転がす少女らの姿は有名だった。あの雪だるまが遂に完成したのかと、わざわざ見に来た人も、きっと居たことだろう。
 悪戯されないようにと、件のお爺さんの家に飾られた雪だるま。所有権を巡って二人のご老人が戦ったという噂もあるが、置いておいて。

 少女らと共に歩み(転がり?)、立つことが叶った雪だるまだけれど、しかし既に季節は春。
 この先に別れが待っていることは、誰もが理解していた。

「ねえお姉ちゃん。あの雪だるま、あのままにしておけないかなあ」

「んー……。流石に難しいと思うなあ。業務用冷凍庫でもない限り……」

「そっかー……」

 私が小さい頃も、雪で作ったものが融けていくのを見るのは、辛かった記憶がある。
 何とかしてあげたい、とは思うものの。現実に対処法があるかと言われれば、ない、と答えるしかない。
 お爺さんが気を利かせて車庫の中に移してくれたけれど、直射日光が当たらなくとも、気温で融ける瞬間は訪れる。
 別れは不可避。とはいえ、このままその瞬間を待つのも癪だなあ……などと考えて、しばらく経った、ある日。
 
 何気なくテレビを観ていて、
 
「―――あ、これだ」

 閃いた。


***


 雪だるまが水に還る瞬間を、皆で見送った。
 外に出された雪だるまは、春の陽気に炙られて、呆気無くその姿を消した。

 やはりと言うべきか、消沈する少女たちに、私は一つずつ、あるものを渡した。
 それは、手のひらサイズの、雪だるま形の容器。
 首を傾げる彼女らに、開けてみな、と促すと、

「―――わ。中に雪が入ってる」

「ねえ、これって―――」

 少女たちの期待の眼差しが、目に眩しい。
 それは、十数年越しの、過去の私の眼差しでもあったのだろう。

「うん。みんなが作った、雪だるま」

 ひと掬いずつ拝借した雪だるまの欠片を、容器に納めただけのもの。
 沖縄に雪を―――色々な自治体で行われている雪の輸送事業、その形を模倣させてもらった。

「もしもまた来年、雪だるまが作りたくなったらさ。その雪を混ぜ込んで、また一から転がそう」

 そうやって続いていけばいいな、と夢想する。彼女らが私くらいの年になっても―――というのは、いささか気の長すぎる話であるけれど。
 人間の代謝と連続性、なんて話は無粋だろう。魂、とでも言っておけばいい。そういうものだ、たぶん。

「その時はまた、仲間に入れてくれる?」

 こうして、私たちの冬は終わった。
 春がきて、夏がきて、秋がきて、また冬がくる。
 証をひとつ、持ち越して。その時をまた、楽しみに待とう。

2012年1月16日月曜日

『起き抜けイライラ棒』

第6回SSコンペ(お題:『寝起きの出来事』)


 目覚めを迎える直前の、この微睡みこそが醍醐味なのだ―――と、曖昧に拡散した意識の中で思う。半ば覚醒し、半ば眠りに就いたままの状態で、顕在しているとも潜在しているともつかない自我認識を弄ぶ、この時間こそが一日で最も尊い瞬間なのだと、僕は信じて疑わない。
 だからこそ、目覚めに際して感じた片腕の痺れに、僕は強い違和を感じた。身体的な異状があれば、曖昧に覚醒した状態を保つことは難しくなる。均衡を保とうにも、すぐに目を覚ましてしまう。それを知っているから、僕はセルフ腕枕で腕を痺れさせるのを避けるため、両腕共に掛け布団の下へとしっかり収納してから眠りに就いているはずなのだった。寝起きの痺れなんてものを最後に感じたのはいつだったろう、と疑問に思えるほど、久しく経験していない現象だ。
 ―――などと、小難しく現状を分析している時点で、既にして覚醒は始まってしまったと見て間違いない。ここから気持ちのいい状態まで退行するのは至難の業だろう、と考える。僕は諦めて目を覚まし、現状を確認する覚悟を決めた。瞼を開き、痺れている左腕を見る。
 
 そこには、僕の腕を背中で下敷きにしつつ、熟睡する姉がいた。

 僅かに残っていた眠気は、その光景を認識した瞬間に吹き飛んだ。脳内に警報が響き渡る。本能はヤバいと喚き、理性は可及的速やかに状況を脱せよと急かしてくる。いずれにせよ、判断と行動が急務であると悟った。
 まず僕が行ったのは、周囲の状況確認だった。目線だけを動かして確認を行う。現在地が確かに僕の部屋であることを認識して、軽く息をついた。間違いなく、ここは僕の部屋だ。もしも万が一、寝ぼけた僕が姉の布団に侵入してしまっていたのだとすれば、これはもう言い訳の利かない状況で、起きた姉に申し開きをする暇もなく殺されるしかないだろう。だが、姉の方が間違えて―――或いは何か意図があるのかもしれないが―――侵入してきたというのなら、これは僕の側に利がある。少なくとも、僕が一方的に悪いという話にはなるまい。我ながら弱気にも程がある分析だが、戦場で長く生き残れるのは臆病者だけなのだ。
 
 さて、僕側の過失ではないと知れた訳だが、それでも状況はオールグリーンとは言いがたい。目覚めた姉が寝ぼけた状態でこの状況を認識したら、どうなるか。反射的に殴られるか、締められるか、極められるか―――少なくとも、僕が痛みを受けるであろうことは明白だ。理性の薄まった時の姉はひらすらに怖い。時間切れまで待つだけでは駄目だ、と認識せざるを得ない。つまり、ここが僕の部屋だろうが姉の部屋だろうが、どのみち退避する以外に道は無かったらしい、ということだ。
 そう考えると、姉が起きる前に部屋を辞し、「何で姉さんが僕の部屋で寝てるのさ?」と困り顔で揶揄するくらいの線が適当なように思える。意識のはっきりした姉相手なら、理不尽な暴力を被ることはないはずだ。……たぶん、きっと。
 
 方針が纏まったので、脱出を試みる。幸いと言っていいのかどうか、圧し潰されているのは片腕だけだ。もしも体全体で抱き着かれていれば詰みだったのだろうが、神は僕を見放してはいないらしい。腕を極力下方向にずらし、布団にめり込ませるようにしながら、ゆっくりと引き抜きにかかる。パジャマ越しの暖かさだとか、布地を引き込む時に感じる肌との摩擦だとかについては一切考えないよう、努めて煩悩を殺しつつ、ゆっくりと。
 やがて、腕全体が抜けそうな位置にまで到達した。大きな恐怖から解放された安堵と、少しの未練―――あまり深く考えるべきではなさそうだ―――を覚えつつ、さりとて最後まで気を抜くべきではないと自戒し、より注意深い動きで、手を引き抜いた。
 
 やった、と思ったのも束の間。 
 途端、姉の体が大きく寝返りをうち、ここ数分での僕の努力は水泡に帰した。
 
 ……いや、単純に状況が巻き戻されるのなら、それはまだいい。やり直せばいいのだから。だが、今回は違う。寝返りと同時に伸ばされた腕は、僕の背中にしっかりと回されており―――当初危惧していた「最悪」の状況が、ここに成立していた。試しに少し身じろぎしてみても、拘束が解けるような感触は全くない。頭側か足側かに抜けられないかとも思ったが、悪いことに妙な手の回され方をしたらしく、服を脱ぐがごとく抜けることは難しいように思えた。作為を感じさせるほどに都合の悪い配置だった。完全に詰んでいる。
 どうしたものか、必死に考える。考えて、考えて―――
 
「……どうせ詰んでるなら、少しでも幸福の貯蓄分を増やしておく方向で」

 おやすみなさい、と呟いて二度寝に走る。清々しいまでの現実逃避に、我が事ながら、笑いが漏れた。もうどうにでもなれ、と自棄糞ぎみに心中呟いて、目を閉じる。
 
「―――ああ、そうだ。毒を食らわば、何とやら」
 
 どうせ無事には済まないのだからと、両腕を姉の背中に回して……力を込めることは流石にできなかったけれど、そのまま、姉と抱き合うような姿勢を形作る。寝ている最中に抱きついたりするのだろうし、早いか遅いかの違いだけだ、と誰にともなく言い訳をする。
 殴られて目覚めるのは嫌だなあ、などと思いながら、僕は再び微睡んだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「……いくじなしめ。眠気に任せて襲って来るくらいの積極性を期待してたんだけど、な」

 薄目を開き、呟いて。
 姉は少しだけ、弟を抱く腕に力を込めた。