第十七回SSコンペ(お題:『食事』)
ぞぶり、と果肉を噛み切るような音がした。
次いで、水音まじりの咀嚼音。生理的な嫌悪を、理性でねじ伏せる。
「……何度も言うけれど。つらいなら、外しなさい」
口元を赤く染めた少女の声は、どこまでも平坦だった。
そこに安堵を覚えながら、僕は首を振る。
「けじめ、だから」
「―――そう。ならいいけど」
そう言って視線を切ると、少女は咀嚼を再開した。
彼女に背を向けて、僕は佇立する。
ぶしゅ、と何かの潰れる音。ぱたぱたと液体の滴る音。
断続的に聞こえる音に、否が応にも、行為の様子を想像させられる。
浮遊感を伴う気持ち悪さに耐えながら、僕は終わりが来るのを待っていた。
……どれくらい経っただろうか。
気付けば、口から胸元までを真紅に染めた少女が、こちらを眺めていた。
ハンカチを取り出して、彼女に渡す。軽く頷くと、彼女は口元を拭った。
「終わったわ。これで当分は保ちそう」
「そっか。後始末は僕がするから、少し待ってて」
言って、彼女の食事跡に残る骨を、火ばさみで布袋に詰めていく。
一塊に盛られた骨の山に吐き気を覚える自分と、律儀に整えられたその絵面に面白みを感じる自分とが、奇妙に共存していた。
「つらい?」
熱に浮かされたような意識の隅で、骨の処理に考えを巡らしていると、彼女の声が降ってきた。
覗きこむようにして投げ掛けられた言葉には、いつも通り、何の感情も読み込むことができない。
―――心配も、同情も、憐憫も、哀しみも、揶揄も、何もない。
言葉通り、ただ彼女は、僕がつらいかどうかを確認しているだけなのだろう。
「ちょっと、きつい。でも大丈夫、好きでやってることだから」
安堵と、名状しがたい感覚とが同時に去来するのを自覚する。
即物的なものだな、という自己嫌悪と、行動原理を再確認させられたような所感とを、同時に抱く。
彼女は少しだけ目を細めて、
「そう。……そう言うのなら、私は構わないけれど」
やはり何の感慨も乗せずに、そう言った。
何も変わらないその言葉に、救われている自分がいた。
……彼女と出逢ったのは、半年ほど前の出来事だ。
あの日、路地裏で僕は、屍体に縋りつく少女と出逢った。
最初は、気が狂れてしまったのかな、と思った。
親しい人の死を受容できず狂ってしまったのかもしれない、と。
でも、少女の居る場所から聞こえる水音が、明らかな異状を訴えていることに、僕は気付いた。
視線に気付いたか、足音で察したか、ゆっくりと面を上げた少女の口元は、赤黒く染まっていた。
「……何かしら。取り込み中だから、手短にお願いするわ」
異端者としての露悪も、異常者としての狂気も、捕食者としての敵意も、そこには無かった。
言葉通り、食事中に人が訪れたから、対応しただけ。
思えば、その在り様を見た瞬間に、僕は狂ってしまったのだろう。
「君は、人を食べるの?」
出てきた言葉は、自分でも驚くほどに平静なものだった。
理性と本能とが乖離したような感覚。
「ええ。食べないと死んでしまうから」
「その人間はどこで? まさか、殺したの?」
「そんな身体能力はないわ。行き倒れていたから、頂いたの」
何の含みも感じさせない、事実だけを述べる発話。
僕はその時点で、彼女に惹かれていたように思う。
「一ついいかな」
「何かしら」
「君と一緒にいたい」
脈略も何もない、唐突な言葉に、
「構わないわ」
ただ頷いた彼女に、仕えようと決めたのだ。
「……やっと見つけた。まあ、場所は移動してるわよね。隣町、とは思わなかったけど」
路地裏で眠る少女のもとに、少女が一人、訪れた。
眠っていた少女は、頭を預けていたもの―――死体から体を起こし、来訪者を茫洋と見据える。
鉄パイプを肩に担いだ少女が、路地を塞ぐように仁王立ちしていた。
「誰かしら」
「あんたが誑かした男の妹よ。返してもらおうと思って、来てみたんだけど―――」
「そう。……そう。残念ね、彼は」
少女の視線が、横たわる死体に落とされる。
鉄パイプの少女は、ああ、とひとつ呻いてから、皮肉げな笑みの形を取り繕った。
行き倒れの死体など、そう転がっているものではない。手を広げれば、足がつく。
いつしか増え出した失踪者と、完全には消しきれなかった痕跡から、彼らの姿は容易に捉えられた。
人を食べるだけの少女と、華奢な少年とでは、警戒を強めた人間を捕食することは困難で。
二人組の食人鬼が目撃され、追われるまでに、そう時間は掛からなかった。
「まあ、そんなことだろうとは思ってた。……どうして死んだの?」
「一昨日の晩に自殺したわ。僕を食べて、って手紙を遺して」
「……まあ、そんなことだろうとは思ってた。本当に、馬鹿なんだから」
やれやれ、と肩をすくめる少女に、敵意の色はない。
「憎くないの?」
空虚な声が路地裏に響く。
ぎちり、と鉄パイプを握る掌に力が篭る。
「……わたしはあんたを裁かない。あの馬鹿兄も、ね。裁かないことに、決めた」
無表情に見据えてくる少女を強く睨みながら、言葉を続ける。
そう、と少女は呟く。それきり沈黙した相手に、びしりと鉄パイプを突き付けて、少女は続ける。
「食べるにせよ、食べないにせよ……よく考えなさい。何がしたいのか、何を求められてたのか」
「……食べて、いいのかしら」
投げ掛けられた疑問の、或いは自問の素朴さに、相貌が崩される。
はあ、と溜息をひとつ吐いて、
「あんた、人を喰ったような奴だわ」
「そう。……まあ、事実ね」
はん、とひとつ鼻をならして、少女は路地裏を去った。
後には少女と、ひとつの死体が残された。
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