第1回SSコンペ(お題:『病弱な姉/妹』)
「入るよ。姉さん、具合はどう?」
降ってきた声に、夢と現の境を茫洋と漂っていた意識が焦点を結ぶ。
導かれるまま視線を上げると、洗面器と手拭いを持った弟の姿が見えた。
ああ、看病に来たんだな、と胡乱な頭で理解する。
せっかくの来訪だ、手を挙げて応えようかとも思ったが―――存外、身体が重かった。
仕方なく、「大丈夫よ」とだけ口にした。
……瞬間、その、己の声の儚さに驚く。
察するものがあったのだろう、彼は眉根を寄せると、
「……いつも通りとはいえ、今回は随分と長引くね。風邪と侮らない方がいい、ってお医者さんも仰ってたけど」
返されたその言葉が、随分と深刻に響いて聞こえたものだから、ばつが悪い。
今更、本当に大丈夫だから、と念を押したところで逆効果だろう。
どうあっても気を遣わせる羽目になるとは、つくづく自身の脆弱さが厭になる。
「……いたって快調だけどね。ただ、寝起きだから、さ」
「ああ、それでか。なら安心なのかな」
負け惜しみ気味に放った言葉も、丁重に切って落とされた。気遣いのおまけ付きで。
ああ、これはもう黙っておいた方が良さそうだ、と観念する。何を言ったところで意味を成すまい。
そう思い、彼から視線を外してしばし放心していると、程なくして、曖昧さが意識を侵食してくるのを感じた。
これは、また寝てしまいそうだな―――と、危惧したそのタイミングで、額に冷たい手拭いが乗せられる。
霧散しかけていた意識が、輪郭を取り戻す。
表情で知れたか、純粋な勘か。いずれにせよ、絶妙な機先の察知だった。
視界の隅に、小さく微笑む弟の顔が、熱にうかされ、揺れて見えた。
―――その様を見て、ふと、魔が差した。
「ねえ」
洗面器を片そうとしていた彼が、首だけでこちらを向く。
視線が絡むのを待ってから、わたしは両手を広げて、おいで、と告げた。
彼は何を問い返すこともなく、小さく頷くと、私の上に身体を重ねた。
重さが掛からないようにと、たすきがけに手をついて。
少し浮いて、わたしの身体を斜めに分割する、彼の身体。
その身体を、抱き寄せた。
ゆっくりと、腕に力を入れていく。
華奢に見えて、その実わたしよりも固く締まった骨格が、わずかに緩むのを感じた。
「どうしたの?」
彼の涼しげな声に、動揺の色は読み取れなかった。
抱きしめ返すでもなく、抗うでもなく、抱擁されたまま、わたしの真意を問うてくる。
この反応に、悔しいなあと思うわたしがいて。
でも一方で、ああ、これがわたしの弟なんだなあ、と静かに満足するわたしも、確かにいた。
「温度。移してあげようと思って」
適当に放った言葉。
なにそれ、と彼が笑った。わかんない、とわたしも笑った。
……でもそれは、正しく状況を記述する言葉ではあったのだろう。
わたしの熱が、彼の身体に移譲されていく。触れ合った部分を起点に、染み入るように。
接点で等しく保たれた温度が、二人を繋ぐよすがとなって、あやふやな絆を確かなものと誤認させる。
―――だめだ。この欺瞞は、余りにも、都合が良すぎる。
衝動が、訳のわからない焦燥感と、自棄じみた昏い想いを喚ぶ。
努めて外に出さぬよう、嚥下して。
……呑みきれなかったものが、胸中に蟠った。
「看病するの、面倒でしょう?」
零れるように、言葉が生まれる。
同時に、意識が急速にぼやけていくのを感じた。
無意識に紡がれたその言葉が、本心なのかどうか。
熱に染まった頭には、もう判らない。
そんなあやふやな言葉に、彼は初めてわたしを抱きしめ返して、
「面倒だ、って言ったら楽になるのかな。なら、言うよ」
―――ああ、この弟は、なんだってこう、優しい/厳しいのか。
尊敬と嫉妬が綯い交ぜになった混沌の中、ゆっくりと意識が剥離していく。
「あんた、強いわ」
紡いだはずの言葉が、適切に出力されているかすら、自信がない。
ただ、
「強いひとの弟だからね。強くならないと、務まらない」
途絶の間際に聞いた、その言葉が。
どこまでも優しく響いたことを、憶えている。
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