2011年7月27日水曜日

『因果の軌跡と奇跡の結実』

「奇跡で終わる物語ってのが、どうにも好きになれなくてね」

「へえ。例えば、どんなところが?」

「……そうだな。たぶん、ご都合主義な面が受け入れがたいのだと思う」

「ふうん。つまり、あなたは奇跡の存在を前提としたような絶望的状況を、敢えて奇跡無しに解決する―――それもご都合主義的にではなく!―――お話が好きなのね? そうでしょう?」

「どうも悪意を感じてしまう言い方だけど、間違ってはいないね」

「あらあら、ごめんなさいね。ついつい穿った言い方をしてしまったけれど、嫌いじゃないわよ、その視点。そうね、ロマンチックで―――純粋だわ」

「意外な評価だな。その心は?」

「だって、あなたはこう言っているも同然なのよ。『極めて物語的な苦難を、ご都合主義の奇跡に頼らず、しかし納得のいくよう綺麗に解決しろ』と。あなたは物語を望んでいる。綺麗な因果によって一筋に連なるような、部分と総体が完璧に相補であるような、綺麗な物語を望んでいる。善き物語は運命のもとに定められている、と言わんばかりに。その視点がロマンチックでないなら、何だというの?」

「そういう観方は、初めてだよ」

「保証してあげる。あなたは誰よりも純粋なのよ。望む物語を、奇跡"ごとき"に汚されるのは許せない、と断ずるあなたは。あなたは望むのね。どこまでも成立し難い、畸形じみた『普通のお話』を。楽な視点ではないでしょうけれど、貫いてみなさい」

4 件のコメント:

  1. まるで――そうまるで、「手を貸してもらう」を選ばずに「わたしがこの手を返さない(孵さない)」というような、最後まで手放さなかった痛感という創まり(あるいは誓約)である軌跡を望むようにも感じとれました。奇跡をもって終わり、断ち切られる物語には、貸借のみが描かれるのかもしれない。あるいは、そこに羽化される現象は、一方的に無人の手を「貸す」だけなのかもしれない。そう考えると、物語という世界に誕生し、活動し、宿し、築いたであろう該当するすべての「カス」が、文字通りただのカスになってしまいそうで、奇跡とはなんと傍若無人なのでしょうか。さすが「人手なし」といったところでしょうか。つい戯言をのべてしまいましたが、短いながら無駄のない、とてもおもしろい会話劇なのです。もっと読みたいなっておもいましたのですですようっ☆

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  2. いつも楽しみにしてます。

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  3. >天才幼女さん
    お褒めいただきありがとうございますー。削って削って整えた結果、会話文しか残らなかった作品であります。
    理不尽こそが現実であり、底抜けの不幸が在るように、暴力的なまでの奇跡もまた現実に在り得る、という信仰が僕にはあります。だからきっと、理不尽を許さない美しい因果の連なりは現実から最も離れた位置にあり、不自然で、だからこそ美しいのだと、そう感じるような気がします。
    困難であれ、迂遠であれ、ありふれたリアルな奇跡に頼らず掴み取られたエンディングは、きっと価値あるもののはずなのだと。

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  4. >すぺくたさん
    どうにも散発的な上に分量も確保できませんで。ううう。
    思いつきに左右されるのでアレですが、どうぞまた。

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