2011年12月1日木曜日

外に視る檻

第3回SSコンペ(お題:『別れ』)

 気づいたのは物心がついた頃だったろうか。わたしには、他のひとには見えないものが見えている。それは絵本に出てくる小人のような姿をしていて、言葉を話すことはないけれど、わたしが話し掛けると頷いたり、微笑んだりといった反応を返してくれる存在だった。自我のめばえよりも早く、ともにある他者。ごく自然に、彼はわたしの話し相手になった。
 傍からは見えない存在と言葉を交わしているように見えたからか、幼い頃にはずいぶん気味悪がられていた。友達の集団から軽く疎外されていたような覚えもある。成長してからは過去の奇行も夢見がちな少女の戯れと見なして貰えるようになったのだけれど、にも関わらず、高校生となった今でもわたしは人付き合いの多い方ではない。「彼」に向かって言葉を投げかける、一方通行の対話に慣らされてしまったのか。双方向の対話というものに億劫さを感じていたわたしは、当然の帰結として、対話を不得手とするに至った。そんな息苦しさから逃げるために、ずっと独りでいた。
 
 転機が訪れたのは、ふと思い立って学校の図書室に訪れた時のことだった。
 本を借りる際に応対してくれた、図書委員の男子生徒の微笑みがなんとなく忘れられない。そう思ったのが始まりだ。
 その日以来、何かにつけて図書室へ行くようになった。気付けば、彼の姿を視線で追っている自分がいた。本に没入していたはずが、ふとした瞬間に紙面から意識が逸れて、図書委員のいるカウンターのあたりをさまよっていることが頻繁にあった。
 そんな、まさか、と思う気持ちはあった。一方で、こういうこともあるだろう、と納得する自分もいた。他者に慣れていない自分のことだ、少しのきっかけがあれば簡単になびくのも無理からぬこと―――と自虐してみても、胸に生まれた衝動を消すことは叶わなかった。
 認めよう、わたしは恋をしたのだ。親兄弟とすらうまく会話できない、相手の善意と社交性に阿ることなしには友人関係を築くことすら叶わないわたしが、生まれて初めて、一足飛びに恋をした。
 
 ―――したのだが、まあ、だからどうということもなく。
 
 何かする行動力も、力を借りる知り合いも持ち合わせていないわたしは、毎日のように「彼」に相談を―――相談という名の言い訳の羅列を聞かせ、返ってくる微笑みや首肯に何となく煮え切らないものを感じつつ、特に何もしないまま時間を空費するのだった。

 そんなふうに胸の裡の想いを弄んでいた、ある日。
 その日の当番は例の彼で、どうも貸し出しの仕事が連続しているらしかった。バックヤードに引っ込んでいないのは好都合だ。カウンターに釘付けになっていた彼を眺めながら、いつもこうだったらいいのに、などと益体もないことを考えていると、すっ、とわたしの視界が翳った。誰かが傍に来たのだ、と気付く。

「あの、兄さんに何か?」

 少し低めの、優しげな声。降ってきた軌跡を辿るように視線を上げると、背の高い女子生徒がわたしを見下ろしていた。内心の驚きを極力抑えつつ、言葉を紡ぐ。
 
「あ、いや、別にその……あの、兄さんというのは一体?」

 当然のように、驚きなど抑えきれているはずもなかった。いや、驚いていなければどもらず言えた、と主張するのもいささか自信過剰な物言いだろうか。これがわたしだ、と主張せんばかりの惨憺たる応答。顔から火が出そうだった。消えてしまいたい。
 内心で自虐の限りを尽くすわたしに対して、件の女子は少しも嫌そうな顔を見せることなく、
 
「いつもご覧になってるあの男の人、私の兄さんなんです。その、ここのところずっと見てらしたように思いまして」

 とんでもない爆弾を投下してくれた。邪気なく放たれた言葉がいよいよわたしの心を抉ってくる。頬が熱くなるのを感じた。思考が定まらない。
 
「あ―――いえ、勘違いだったらごめんなさい。責めようとか馬鹿にしようとかいうんじゃないんです。ただ、私以外に兄さんのことを見てる人がいるんだ、って思うと嬉しくてつい」
 
 固まってしまったわたしを見てか、少々あわてたような素振りを見せつつ早口に彼女は続けた。わたしはといえば、言われた内容を満足に飲み込むこともできず、ただひたすらに黙りこくるしかない。そんなわたしに対して些かの侮蔑すらも見せず、彼女は嬉しげに、こんな提案をした。

「あの、図書室で喋るのもなんですし、宜しければ放課後にでもお喋りしませんか?」

 ひとつ、頷いた。更に投げかけられたいくつかの質問にも、同様に首肯を繰り返した。あまりに想像の埒外な展開であったため詳しくは覚えていないが、多少の問答の末、わたしは彼女と一緒に下校する流れとなったらしい。そこから昼休みが終わって、放課後に至るまでの時間もまた、記憶から抜けている。あまりの出来事に、脳の処理が追いつかなかったのだろうか。ふわふわした心地のまま、気づけば放課後になっていた。
 
 帰路、わたしたちはいろいろなことを話した。わたしにとっては、こんなに喋るのは生まれて初めてだ、と比喩でもなんでもなく言えてしまうくらいの会話量だった。
 内容を要約すると、こうだ。彼女は彼のことを自慢の兄だと思っているが、周囲の人は誰も彼の魅力を理解してくれないのだという。そのことで鬱屈としたものを溜め込んでいるところに、彼を注視する女子を発見して、思わず声を掛けてしまった―――というのが、ことの顛末。その行動論理を見れば解る通り、思った以上に豪快な人であるらしく、わたしが彼に恋していると知るや否や、当初抱いていた遠慮がちな彼女の印象もどこかへ吹き飛んでしまった。
 結果、会話の内容も、
 
「―――だから私、嬉しくって。あの、兄さんのどこを良いと思ったのか、宜しければ聞かせてもらえません?」

「ぇっと……正直なところ、自分でもよくわからないんですが。ただ、他の人への振る舞いが優しかったから、かなあ……とか……まあ」

「振る舞いの優しさ……ええ、正にそうです。そこにお気づきになられるとは、お目が高い! そも、兄さんの長所というのは―――」

 ―――といったふうに、惚気とも身内自慢ともつかないものばかりだった。初印象を裏切られたような気もしていたが、決して不快ではなく。むしろ、しどろもどろになりがちなわたしを上手に導いてくれる彼女と喋るのは、わたしにとってはおそらく初めての、息苦しくない他者性との対話だったように思う。少々の疲れは感じたものの、わたしは極めて快く、他人と会話することができた。
 
 その日以来、わたしたちはたびたび帰路を同じくした。彼の攻略、というのを目標に掲げたサポート体制の始まりだ。作戦会議と称しては喫茶店に入り浸り、装備の調達と称しては服を買いに街へ繰り出す。人と喋ることは苦手なままだったけれど、友人と共に過ごす日々は悪くなかった。
 ただ、ひとつだけ不安なこともあった。いつも視界の隅にいた「彼」、その姿をしばしば見失うようになっていたのだ。最初は気のせいかと思っていたが、数週間、数ヶ月と時が経つにつれ、その頻度は増えていった。悲しみはあったが、それは自分でも驚くほどに弱いものだった。長年傍にいてくれた存在、その喪失の予感を得てもなお平静でいられたのは、新たに得た友人の存在がゆえにだろうか。そんなにも、わたしは薄情なものだったのか。そう思うと、自分の小ささに嫌になった。

 更に数カ月が経ち、何度目かの作戦会議を経て帰宅した、ある日。もうその頃には「彼」が見えない時間の方が圧倒的に長くなっていたのだが、この日は昔のように鮮明に、彼の姿を捉えることができた。
 その様子を見て、ああ、消えるんだな、と直感した。
 気の利いたことを言える自信はなかったが、最後くらいは、と思った。或いは、蔑ろにしてきたことへの後ろめたさに突き動かされたのか。判然としないまま、言葉が漏れた。
 
「ずっと話し相手になってくれて、ありがとう。どのくらい役に立ったのかは判らないけど……今のわたしは幸せだよ」

 微笑みだけが返ってくる、ともすれば空虚な受け答え。だとしても、わたしは続ける。いつだって、そこに意味を見出してきたんだから。最後だって、かくありたい。
 
「実際、君がいてくれなきゃ一人でうまく過ごせてたのかも怪しいものだし。ここまで来れたのは君のおかげ」

 返答はない。いつだってそうだった。いつだって「彼」は、黙って話を聞いてくれていた。全て解っている、と言いたげな微笑みと共に。
 ……そう思った瞬間、わたしの中に蟠っていたものたちが、符号した。
 
「ああ―――なんだ、そういうことか」

 他者性との触れ合いを避けてきたわたし。「彼」が決してわたしの言葉を否定しなかったこと。にも関わらず、わたしが「彼」の反応に不満足な思いを抱いた記憶。
 望む反応も、望まぬ反応も、本当に、心の底では望んでいた反応も―――的確に返していた、物言わぬ聞き手。
 
「鏡、だったんだ」

 くるりと輪を描いた、自我の壁。こじ開けて、外界を視た。
 その美しさに魅了されて―――もっと、もっとと広げた挙句、鏡は割れた。必要な犠牲だった、とは言える。通過儀礼だった、とは言える。そもそもがただの鏡映、他者性を宿さないそれとの別れに何を、とも言えるだろうけれど。
 
「―――今までありがとう。さよなら」
 
 今しばらくは、この喪失を感じていたい、と思った。
 しっかり悲しんで、立ち直ったら、綺麗な世界を楽しむのだ。「彼」と同じ、この両眼で。

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