第十三回SSコンペ(お題:『雨』)
見渡すかぎり何もない草原の、少し盛り上がって丘陵となっている部分にわたしは座っていた。見渡しても、視界を遮るものは何もない。全周にわたって地平線が確認できる。焦土でもないというのに木の一本すらも生えない土地。そんな不自然極まりない風景が成立しているのは、ここが仮想空間であるがゆえだ。
極限までオブジェクトを削った機能的なマップと、しかしプレイヤーを魅せようと作りこまれた空のテクスチャとの狭間。体験型3DMMOの世界を完全なものとするにはPCスペックの足りなかった時代に、それでも最善の体験をと構築された旧世代の楽園。わたしがいるのは、そんな場所だ。
作り物の太陽が天球を移動するのを眺めながら、視界の端で徐々に人が増えていくのを確認する。催しを前に、続々と集まってきているらしい。そのままぼーっと天を見上げていると、何とも形容しがたい音を合図に、青白い魔方陣が中空に出現した。光の模様が上から下へと宙をなぞった後に、フードをかぶった少年のアバターが立っていた。
「お、早いじゃん。さすがは真面目さん」久々に聞いた声は、変わらず稚気に溢れていた。
魔方陣から出てきた少年はわざとらしく手を振るモーションなどしてみせてから、わたしの隣に腰を下ろす。
「久しぶりだってのに、随分と感動のない挨拶ね。らしいって言えばらしいけど」咎めるように言ってみせると、ますます彼は笑みを深める。
わたしたちがこのゲームを主戦場としていたのは、随分と前の話だ。二人はここでの繋がりをどこにも持ち越していない。示し合わせて同じ新作に移住することもなく、各々が好きなように違うゲームへと活動の場を移していた。
「おー、来てる来てる。あんなに過疎ってたってのに、こういう機会があれば余裕で集客できるんだ」彼がひさしのように手を掲げて、遠方を見渡しながら言う。
倣ってわたしも目を凝らすと、草原の至る所に魔方陣の出現する様子が見えた。刻限が近くなってきたからか、現れる魔方陣の数は飛躍的に増加している。この瞬間だけ見れば、現役のゲームと言われても疑うものは居ないだろう。そのくらいの数だった。
「まあ、そりゃあ……ね。でもまあ、何度もできやしないでしょ、こんなイベント」
新作が発売される度に長足の進化を遂げるMMO界隈の、数世代も過去の作品である。何のリソースも追加されなくなった世界で可能性を食いつぶす作業に熱中できる人種はそう多くはなく、昨今の過疎化はもはや、作品世界の成立すらも阻害する域に達していた。こうまで人の集まったことが、過去何度あったろうか。そんな問いすら浮かぶほどに、遠い光景に見えた。
「わからないよ? ……ほら、あるじゃない。現実世界にもさ。閉店セールと開店セールを繰り返す店っての」薄っぺらい微笑みを貼り付けて、彼が言う。
つまりは、そういうことだ。わたしたちは、世界が終わる様を見届けるためにここにいる。
草原がマップ端まで人で埋め尽くされた頃に、運営らしきアバターが現れた。運営サイドの発言に傾注するのも久々だな、と気を引き締める。
挨拶もそこそこに、運営サイドからの感謝の言葉が述べられていく。長期間に渡ってプレイしてくれたこと、こうして最後のイベントに大勢で集まってくれたこと。どこかしんみりとした空気が漂う中、新作に移っても変わらぬご愛願を、と〆た辺りはさすが商売といった風情で、少し笑った。
やがて、話も終わる。一種異様な緊張が、俄に場を満たしていくのを、HUD越しに感じた。
「さて、最後に一つ、サプライズをご用意しております。尤も、内容は事前にリークされてしまっているようで……だからこそこの人数、ではあるのでしょうが」言葉を切ると、運営のアバターはゆっくりと時間をかけて草原を見渡し、
「―――本当に、最後のお別れです。ごゆっくりお楽しみください」そう言い残して、消滅した。
直後、世界の崩壊が始まった。
誰が企画したのか、正式なサービス停止に伴うデータの破棄に際して、徐々に落とされていく仮想世界の崩壊を内部から眺めてみようという、頭の螺子の外れた催しだ。アバターの維持に必要なデータだけは最後の最後まで保護され、重要度の低い情報から順に、マトリックスの向こうへと沈んでいく。どんなものが見えるかは予測不可能、最後に相応しい自棄気味のアトラクション。
2進数で表現された世界の欠落は、すぐに視覚の異常という形で現れた。抽象画のような描像が宙に浮いては消え、景色が遠方から、霧のように輪郭を失っていく。わたしたちは少しでも長く正常な領域に留まることを選択したが、進んで世界の端に消えていく者たちも少なくなかった。どこへ行けば面白いものが見られるか、どこで終わりを観測したいか。人の数だけ、思惑があるのだろう。
「いやー……予想してたつもりだけど、これはすごい。イカれてるね」柄にもなく、本当に感嘆している風な声が隣から聞こえる。からかってやろうかとも思ったが、度肝を抜かれているのはわたしだって同じだ。
「テクスチャは殆ど滅茶苦茶ね。あ、魔法撃ってる連中がいる。あーあー、バグっちゃって……」見慣れたはずの魔法エフェクトが歪む様に、当事者も野次馬も歓喜に湧いている。もはや狂騒的と言うほかない盛り上がりっぷり。
「葬式と通夜と告別式が一緒に来たようなものだからねえ。テンション上がっちゃうのも仕方ないでしょ」心底楽しげな声色で少年が言う。どうやら調子を取り戻したらしい。
「ずれてる上に不謹慎」横目で伺うと、嬉しそうに笑う彼の表情が見えた。わたしたちはそのまま、動かずに崩壊を眺めていた。
「――――――雨?」
暫くして、もはや正常な部分を探すほうが難しくなった世界に、誰ともない呟きが響いた。見ると、空から無数の線条が降り注いでいる。何がどうなった結果の描像かは判らないが、空間を埋める黒い筋はなるほど、雨に見えた。気づけば、大勢の人間が空を見上げていた。
「確か、新作では天候の再現も売りにしてるんだっけ?」少年が天を見上げたまま呟く。
快適なプレイのために多くを切り捨てざるを得なかったこのゲームに、リアルタイムで雨粒をレンダリングする機能など備わっていない。見られるはずのなかった光景に、誰もがただ、空を眺めていた。
「最後の最後に仕様外の天候エフェクト、ね。何というか、出来すぎ」
そんな言葉が口をついて出たものの、わたしは何かしら、衝撃を受けていたように思う。老いた世界の最後の徒花。力を振り絞った果ての、異常に蝕まれた末の奇跡。あまりにも読み込みが過ぎる、とは思うものの。
皮肉を好む彼にしては珍しく、少年は追随してこなかった。
それから、どれだけの時間が経ったのか。天も地も白く染まり、さながら合成写真用のスタジオのような様相だ。情報の少ない部屋に人間を閉じ込めると精神に良くないとは聞くが、なるほど、これはつらい。耳を嬲るホワイトノイズと、雨のような線条の動きだけが、世界がまだ終わっていないことの証左だった。
「おーい、まだ生きてる?」隣のあたりの空間から、ノイズでひび割れた声が聞こえる。
もはや視覚で他アバターを捉えることはできない。代わりに、この空間のあちこちで、声を上げて残留を主張する者たちがいた。わたしと彼もその一部だ。定期的に声をかけ合っては、互いに存在を確認する作業。
「生きてる。何となく周囲の声も減ってきた感じだし、そろそろ終わりが近いのかしら。そうでなければ」
「僕らの聴覚系が死に始めたのかもね」途中で遮って少年が言う。「まあ、冷静に考えれば両方かな。せっかくだし、最後の最後まで見てみたいけど」
いつになく真面目な声色で喋る彼に引っ張られたのか、何なのか。柄にもなく、感傷的なことがしたくなった。
「―――ねえ。新作でまたパーティ組まない?」何気なく漏れた、風に聞こえたはずだと思う。無言が続く。顔が見えないだけに、俄に不安感に襲われる。
今のなし、とでも言おうかと考え始めた頃合いに、「なんでまた」と、驚いたような声が聞こえた。よくよくキャラの崩れる日だ、と内心笑う。
「……じゃあ、雨が降ったから、ってことで」
言い終わると同時に、視界が真っ白に塗りつぶされる。一方的な約束を最後に投げて、わたしたちは世界の終わりに立ち会った。
2012年5月8日火曜日
『眠る祈り』
第十二回SSコンペ(お題:『鍵』)
「……ん? なんだこれ」
数年ほど放置していた机の引き出しを整理していて、見覚えのない鍵をみつけた。昨今主流のディンプルキーではなく、絵本に出てきそうなほどに単純な形をしたピンタンブラー錠だ。おそらく真鍮製だろう、華奢で玩具めいた鈍色の鍵。まともな扉や引き出しの鍵には見えないし、そもそも私の部屋に鍵をかけられる場所なんてない。対になった南京錠でもあるのかと思い、引き出しの奥をさらってみたけれど何も見当たらず。
素性不明の鍵。唐突に湧いた謎に、片付けで疲弊していた私の脳が俄に活気を取り戻す。有り体に言えば現実逃避、だが構うまい。どのみち放置していても気になって片づけが手に付かないこと請け合いだ。よし理論武装完了。
「開ける対象の見当たらない鍵。こいつは―――事件の香りでスよ、金田一君」
そういうことになった。
「―――という訳です。どうですかワトソン君、この名探偵に力を貸してみる気になりました?」
「あのな、それで俺のところに来るのは絶対に間違ってるからな。今後はそーいうの慎めよ。じゃあな」
玄関扉を少しだけ開き、心底嫌そうに呟く我が幼馴染。
せっかく訪ってやったというのに素気なく扉を閉めようとする彼の額に、体重を込めて鍵を突き刺す。軽くめり込む感触と漏れ聞こえる悲鳴をうけつつ手首を回転。ぎりり、と皮膚を巻き込んで鍵がまわる。同時に飛んでくる右拳が私の額を強打、クロスカウンター気味に殴り飛ばされた。よろけて数歩、たたらを踏む。
「……何もグーで殴るこた無いじゃないですか? 仮にも乙女ですよ」
痛いなあ、と額をさすりつつ私。
「金属製の鍵で額刺されるよりは万倍マシだよ馬鹿が。頭壊れてんのか」
額を押さえて扉にもたれ、絞りだすような声で幼馴染。
「いや何、ちょっと心の部屋を覗いて差し上げようかと」
「病院行け。その足で行ってこい」
「本当の君は言っていました。美人で優しい幼馴染の探求に付き合ってあげたいけど僕ツンデレだから素直になれないよぉ、とね」
ふふん、と無い胸を張りながら言ってみせる。幼馴染が前かがみに項垂れる。
「変わった色の救急車とか呼んだ方がいいのか? 自分で行けないなら迎えに来てくれるんだぜ。知ってたか?」
頭に手をやり、ため息をつきながら。言葉は依然として荒いものの、その気勢が萎えていくのを敏感に察知。ここは押しの一手と判断する。
「まあまあお茶でも飲みながら計画を練るとしましょう。麦茶でいいですよ。お茶うけは甘いものだと私が嬉しい」
「傍若無人って言葉を辞書で引いて恥を知って何だかんだで死ねよ……本当に何なんだよお前……」
言いながらも扉を開き、嫌そうに私を招く彼。ええ、信じていましたとも。
「では失礼、お宅拝見」
「事情はさっき説明した通りなんですけど、何か疑問点とかあります? あ、相変わらず良い米使ってますね」
「……喜んで茶漬け食ってるって事実に甚大な疑問を抱いてるところだが」
茶碗に盛られたお茶漬けをさぱさぱと流し込んでいると、幼馴染の胡乱げな視線がびしびしと刺さる。しかし米はおいしい。
「出されたものは食べる主義ですから。米系ならおはぎとかぼた餅とか出してくれても、とは思いましたけど」
言うや否や、ばん、と卓袱台に叩きつけるようにお煎餅の乗った小皿が出現した。ありがとうと断ってから頂く。ぽたぽた焼きはやはりうまい。
「出しておいて言うのも何だが、煎餅をおかずに茶漬け食ってる絵面は精神に悪いな」
「砂糖醤油で味付けした米料理なんだし、おかずと言っても過言ではないと思いますけど」
「いやその理屈は……まあいいや。で、何? 錠前を探してるんだったか?」
心底どうでもよさそうな幼馴染の声。一旦箸を置き、神妙な顔を取り繕ってから喋ることとする。
「ええ。引き出しの奥にわざわざ仕舞っておくほどの鍵、たぶん何か大事なものを開けるためのものだったとは考えられませんか」
「で、なんで俺」
「私の家にないなら貴方の家かと。いやほら、私他に友達いませんし。どころか知人すらいませんし」
テンポよく進んできた会話が、途端に勢いを失う。あ、と思った時にはもう遅い。
「……あのな。そういうことをな、笑顔で言うなよ」
そして流れる気まずい空気。
「あのー、そうマジになられると困るんですが」
「茶化せる話でもないだろ?」
「笑わなきゃどうしようもない話だとも言えますね」
しばしの沈黙。ふう、と溜息が漏れる。
「―――わーったよ。探してやる。もしかしたら俺も関わってたかも知れないんだしな」
思惑通りに―――あるいは思惑を汲んでもらって、場が弛緩する。
「さすが話が早い。では早速行きましょうか」
「とりあえず、可能性があるのは……俺の部屋か? 無ければ物置だな」
「ええ。ではでは、レッツ家探し!」
「隊長、ベッド下に桃色本というのは如何にも捻りが足らないのではありませんか! もっとこうフェイクとか二重底とか―――」
部屋にお邪魔してダッシュ一番、保存場所の埃っぽさにも関わらずいささかも埃に白んだ様子のない書籍群を引きずり出して叫ぶ。
「軍曹、軍法会議モノの独断専行は即刻止めて任務に戻りたまえ」
こちらを見ようともせずに告げられる言葉。平坦なイントネーションは殺意を乗せるのに最適なのだなあ、と思い知る。
「サー! エロ本戻します、サー!」
速やかに本を戻す。埃が溜まってないってことは日常的に使用を? とか訊いてみたい欲求もないではないけれど、しかし猫死にするのは避けたいところ。
「よろしい。……それなりに片してあるし、机の中とか見ても仕方ないだろ。探すんなら押入れの中かな」
「えーっと、古くて捨てらんないものとか箱に小分けして収納してるんでしたっけ?」
「解説台詞ありがとう。奥に行くほど古いはずだ。手前から見てみるか」
そんなこんなで、錠前を探す。小中の卒業アルバムの寄せ書き欄を見てはため息をついたり、愛着のある玩具の類を見つけては郷愁に浸ったり。懐古の念に浸り初めてしばらく、ちょうど小学校の頃の地層へと到達したくらいの段階で、私たちは目当てのものを発見した。
「―――あ、これ」
幼馴染の手には、両掌に乗るほどの小さな木箱。蓋と箱を結ぶように華奢な南京錠がひとつ渡されていて、そのくすんだ色味は件の鍵と瓜二つだった。
「おお、大正解っぽいじゃあないですか。早速開けてみましょう」
そう言って伸ばした掌が空を切る。捧げ持つように箱を退避させる幼馴染。え、と非難がましく視線を向ければ、あからさまに顔を逸らしてくれる。
「……何ですかそれ。イジメですか」
「いや、違う。違うんだが……中身が何だったのか思い出してな」
「嫌がるようなものだったと?」
「端的に言えば、気恥ずかしい」
言いながらも、私の掌に木箱を載せる幼馴染。とりあえず、渡してはくれるらしい。
「……で結局、開けちゃっていいんです?」
「ああ。でも俺が帰ってからにしてくれるか。流石に過去の恥と対面するのはなあ」
「しかしOpen Sesame」
即解錠。かちり、と嘘みたいに軽い手応えを残して蓋が開く。中には便箋が一枚。
「おいやめろ―――」
「この手紙は早くも読解ですね。えー、なになに……『お前がこの手紙を読んでる今、きっと俺はそこには居ないんだと思う』―――うおお」
「音読とか何考えてんだよ……殺す気か」
「いやいや茶化してすまんこってす。でもこの書き出しは流石に狙いすぎなんじゃあ……」
「中学生だったんだよ! 多感な時期だったんだよ! 察せよ!」
「まあいいや。ところで引越しか何かのご予定でも?」
「……ああ。それ書いたのがちょうど夏休み前だったか。休み中に居なくなる予定だったんだよ。立ち消えになったがな」
「へえ。それで自分のいなくなった後に読ませるメッセージを……青いですねえ」
「浪漫に溢れてたと言えよ。もしくは殺せ」
そんなこんなで、幼馴染の家を追い出される。恥ずかしさが臨界に達したとみた。
帰り道、歩きながら便箋に何度も目を通す。私を残していくことへの謝罪と、過ごした時間への郷愁。そして、激励。
「あんたは私のオカンですか、って感じですねー……。まあ保護者みたいなものでしたけど」
受け取るべき者が変質して、宙ぶらりんになった祈り。直接には意味を持たないはずのそれら言葉は、しかしなお、私の胸をつよく揺さぶるものだった。面と向かっては絶対に言えないであろう、真摯な思いやりだけが並ぶ手紙。
面映く、どこか口惜しい。気恥ずかしくもある。どこか負けたような感触すら。どうしたものかとしばし考えて―――閃く。
「……うーん。箱と鍵、どういうのにしようか」
封じ込めることでしか伝達できない、青すぎる真っ直ぐな想い。目には目を、の精神で、私もまた鍵をかけよう。どこに隠しておけばタイミングよく発見されるだろうか。少なくとも、この件を互いに忘れてからが宜しいだろう。ふと思いついた悪戯に、稚気やら何やら、雑多な感情を混ぜ込んでいく。
解かれた時、私たちがどうなっているのかは知らないけれど。封をされた言葉が、何かしら動かすことを願って。
「……ん? なんだこれ」
数年ほど放置していた机の引き出しを整理していて、見覚えのない鍵をみつけた。昨今主流のディンプルキーではなく、絵本に出てきそうなほどに単純な形をしたピンタンブラー錠だ。おそらく真鍮製だろう、華奢で玩具めいた鈍色の鍵。まともな扉や引き出しの鍵には見えないし、そもそも私の部屋に鍵をかけられる場所なんてない。対になった南京錠でもあるのかと思い、引き出しの奥をさらってみたけれど何も見当たらず。
素性不明の鍵。唐突に湧いた謎に、片付けで疲弊していた私の脳が俄に活気を取り戻す。有り体に言えば現実逃避、だが構うまい。どのみち放置していても気になって片づけが手に付かないこと請け合いだ。よし理論武装完了。
「開ける対象の見当たらない鍵。こいつは―――事件の香りでスよ、金田一君」
そういうことになった。
「―――という訳です。どうですかワトソン君、この名探偵に力を貸してみる気になりました?」
「あのな、それで俺のところに来るのは絶対に間違ってるからな。今後はそーいうの慎めよ。じゃあな」
玄関扉を少しだけ開き、心底嫌そうに呟く我が幼馴染。
せっかく訪ってやったというのに素気なく扉を閉めようとする彼の額に、体重を込めて鍵を突き刺す。軽くめり込む感触と漏れ聞こえる悲鳴をうけつつ手首を回転。ぎりり、と皮膚を巻き込んで鍵がまわる。同時に飛んでくる右拳が私の額を強打、クロスカウンター気味に殴り飛ばされた。よろけて数歩、たたらを踏む。
「……何もグーで殴るこた無いじゃないですか? 仮にも乙女ですよ」
痛いなあ、と額をさすりつつ私。
「金属製の鍵で額刺されるよりは万倍マシだよ馬鹿が。頭壊れてんのか」
額を押さえて扉にもたれ、絞りだすような声で幼馴染。
「いや何、ちょっと心の部屋を覗いて差し上げようかと」
「病院行け。その足で行ってこい」
「本当の君は言っていました。美人で優しい幼馴染の探求に付き合ってあげたいけど僕ツンデレだから素直になれないよぉ、とね」
ふふん、と無い胸を張りながら言ってみせる。幼馴染が前かがみに項垂れる。
「変わった色の救急車とか呼んだ方がいいのか? 自分で行けないなら迎えに来てくれるんだぜ。知ってたか?」
頭に手をやり、ため息をつきながら。言葉は依然として荒いものの、その気勢が萎えていくのを敏感に察知。ここは押しの一手と判断する。
「まあまあお茶でも飲みながら計画を練るとしましょう。麦茶でいいですよ。お茶うけは甘いものだと私が嬉しい」
「傍若無人って言葉を辞書で引いて恥を知って何だかんだで死ねよ……本当に何なんだよお前……」
言いながらも扉を開き、嫌そうに私を招く彼。ええ、信じていましたとも。
「では失礼、お宅拝見」
「事情はさっき説明した通りなんですけど、何か疑問点とかあります? あ、相変わらず良い米使ってますね」
「……喜んで茶漬け食ってるって事実に甚大な疑問を抱いてるところだが」
茶碗に盛られたお茶漬けをさぱさぱと流し込んでいると、幼馴染の胡乱げな視線がびしびしと刺さる。しかし米はおいしい。
「出されたものは食べる主義ですから。米系ならおはぎとかぼた餅とか出してくれても、とは思いましたけど」
言うや否や、ばん、と卓袱台に叩きつけるようにお煎餅の乗った小皿が出現した。ありがとうと断ってから頂く。ぽたぽた焼きはやはりうまい。
「出しておいて言うのも何だが、煎餅をおかずに茶漬け食ってる絵面は精神に悪いな」
「砂糖醤油で味付けした米料理なんだし、おかずと言っても過言ではないと思いますけど」
「いやその理屈は……まあいいや。で、何? 錠前を探してるんだったか?」
心底どうでもよさそうな幼馴染の声。一旦箸を置き、神妙な顔を取り繕ってから喋ることとする。
「ええ。引き出しの奥にわざわざ仕舞っておくほどの鍵、たぶん何か大事なものを開けるためのものだったとは考えられませんか」
「で、なんで俺」
「私の家にないなら貴方の家かと。いやほら、私他に友達いませんし。どころか知人すらいませんし」
テンポよく進んできた会話が、途端に勢いを失う。あ、と思った時にはもう遅い。
「……あのな。そういうことをな、笑顔で言うなよ」
そして流れる気まずい空気。
「あのー、そうマジになられると困るんですが」
「茶化せる話でもないだろ?」
「笑わなきゃどうしようもない話だとも言えますね」
しばしの沈黙。ふう、と溜息が漏れる。
「―――わーったよ。探してやる。もしかしたら俺も関わってたかも知れないんだしな」
思惑通りに―――あるいは思惑を汲んでもらって、場が弛緩する。
「さすが話が早い。では早速行きましょうか」
「とりあえず、可能性があるのは……俺の部屋か? 無ければ物置だな」
「ええ。ではでは、レッツ家探し!」
「隊長、ベッド下に桃色本というのは如何にも捻りが足らないのではありませんか! もっとこうフェイクとか二重底とか―――」
部屋にお邪魔してダッシュ一番、保存場所の埃っぽさにも関わらずいささかも埃に白んだ様子のない書籍群を引きずり出して叫ぶ。
「軍曹、軍法会議モノの独断専行は即刻止めて任務に戻りたまえ」
こちらを見ようともせずに告げられる言葉。平坦なイントネーションは殺意を乗せるのに最適なのだなあ、と思い知る。
「サー! エロ本戻します、サー!」
速やかに本を戻す。埃が溜まってないってことは日常的に使用を? とか訊いてみたい欲求もないではないけれど、しかし猫死にするのは避けたいところ。
「よろしい。……それなりに片してあるし、机の中とか見ても仕方ないだろ。探すんなら押入れの中かな」
「えーっと、古くて捨てらんないものとか箱に小分けして収納してるんでしたっけ?」
「解説台詞ありがとう。奥に行くほど古いはずだ。手前から見てみるか」
そんなこんなで、錠前を探す。小中の卒業アルバムの寄せ書き欄を見てはため息をついたり、愛着のある玩具の類を見つけては郷愁に浸ったり。懐古の念に浸り初めてしばらく、ちょうど小学校の頃の地層へと到達したくらいの段階で、私たちは目当てのものを発見した。
「―――あ、これ」
幼馴染の手には、両掌に乗るほどの小さな木箱。蓋と箱を結ぶように華奢な南京錠がひとつ渡されていて、そのくすんだ色味は件の鍵と瓜二つだった。
「おお、大正解っぽいじゃあないですか。早速開けてみましょう」
そう言って伸ばした掌が空を切る。捧げ持つように箱を退避させる幼馴染。え、と非難がましく視線を向ければ、あからさまに顔を逸らしてくれる。
「……何ですかそれ。イジメですか」
「いや、違う。違うんだが……中身が何だったのか思い出してな」
「嫌がるようなものだったと?」
「端的に言えば、気恥ずかしい」
言いながらも、私の掌に木箱を載せる幼馴染。とりあえず、渡してはくれるらしい。
「……で結局、開けちゃっていいんです?」
「ああ。でも俺が帰ってからにしてくれるか。流石に過去の恥と対面するのはなあ」
「しかしOpen Sesame」
即解錠。かちり、と嘘みたいに軽い手応えを残して蓋が開く。中には便箋が一枚。
「おいやめろ―――」
「この手紙は早くも読解ですね。えー、なになに……『お前がこの手紙を読んでる今、きっと俺はそこには居ないんだと思う』―――うおお」
「音読とか何考えてんだよ……殺す気か」
「いやいや茶化してすまんこってす。でもこの書き出しは流石に狙いすぎなんじゃあ……」
「中学生だったんだよ! 多感な時期だったんだよ! 察せよ!」
「まあいいや。ところで引越しか何かのご予定でも?」
「……ああ。それ書いたのがちょうど夏休み前だったか。休み中に居なくなる予定だったんだよ。立ち消えになったがな」
「へえ。それで自分のいなくなった後に読ませるメッセージを……青いですねえ」
「浪漫に溢れてたと言えよ。もしくは殺せ」
そんなこんなで、幼馴染の家を追い出される。恥ずかしさが臨界に達したとみた。
帰り道、歩きながら便箋に何度も目を通す。私を残していくことへの謝罪と、過ごした時間への郷愁。そして、激励。
「あんたは私のオカンですか、って感じですねー……。まあ保護者みたいなものでしたけど」
受け取るべき者が変質して、宙ぶらりんになった祈り。直接には意味を持たないはずのそれら言葉は、しかしなお、私の胸をつよく揺さぶるものだった。面と向かっては絶対に言えないであろう、真摯な思いやりだけが並ぶ手紙。
面映く、どこか口惜しい。気恥ずかしくもある。どこか負けたような感触すら。どうしたものかとしばし考えて―――閃く。
「……うーん。箱と鍵、どういうのにしようか」
封じ込めることでしか伝達できない、青すぎる真っ直ぐな想い。目には目を、の精神で、私もまた鍵をかけよう。どこに隠しておけばタイミングよく発見されるだろうか。少なくとも、この件を互いに忘れてからが宜しいだろう。ふと思いついた悪戯に、稚気やら何やら、雑多な感情を混ぜ込んでいく。
解かれた時、私たちがどうなっているのかは知らないけれど。封をされた言葉が、何かしら動かすことを願って。
2012年4月17日火曜日
『いだいなわたし』
第十一回SSコンペ(お題:『桜』)
「ねえ、今日はどんな空?」
西陽の差す病室で、少女は少年に問い掛ける。ベッドの上で背を起こした体勢で、両目を瞑ったまま、目蓋を透かすように空を見つめながら。
「晴れてるよ。とても高く見える」
少年は少女の方も見ずに、車椅子を組み立てながら応じる。へえ、と少女の楽しそうな声。
「風は?」「少し吹いてる」「気温はどう?」「暖かいよ」
テンポよく重ねられる応酬には淀みがなく、既定事項の確認といった趣すら漂う。
「―――理解したわ。私が神に愛されてる、ってことを」
依然として目を瞑ったまま、少女は勝ち誇るがごとく言い放つ。
「……神に愛されてたら失明はしないと思うけど、ね」
そう呟く少年の後頭部に、直後、患者用のスリッパが突き刺さった。
「はん。偉大な者には試練が立ち塞がるものだっつーのよ。それも乗り越えられる範囲で最大のものが、ね」
「見えてもないのによく当てるね……」
頭をさすりながら零した言葉に、少女は嗜虐的な笑みを浮かべ―――すぐに真顔に戻る。
「あんたの頭を狙うくらい、寝てたって造作も無いことだわ。そんなことより、私いま凄くいいこと言ったんだけど」
腰に手を当てて、詰問するがごとく。
少年はひとつ笑うと、組み上げた車椅子を杖に立ち上がり、
「はいはい、感銘を受けました。じゃあほら―――そろそろ、確認しに行こうよ。君の偉大さを」
言って、少女の手をとり、車椅子に導いた。
少女は一瞬だけ躊躇いを見せて、しかし次の瞬間には不敵な笑みを形にして、
「ええ、偉大なる私の再起に同席させてあげる」
確信に満ちた響きで、そう言った。
両脇を木立に挟まれた林道、舗装こそされていないものの、整備された歩道を、車椅子が行く。
「遅いわねぇ。もっと速度出せないの?」
眉根を寄せて、少女が呟いた。
後ろで押す少年は僅かに苦笑し、
「出せないことはないけど、危ないから」
と、同じペースで歩を進める。
「そ。じゃ、安全運転で急ぎなさい」
目を瞑ったままで、少女が言う。硬い口調の中に、僅かに稚気が覗く。証明するように、口元には僅かな笑み。
少年は満足げに微笑むと、少しだけ足を早めた。お、と少女の呟きが漏れる。呼応するように、また僅かに増す速度。おお、と少女の歓声が上がる。どちらともなく、笑い声。
がたがたと揺れながら、じゃれあいを乗せて、車椅子は道を行く。
林道を抜けた先には、広場があった。さして広大ではないが、中央に植えられた大樹が否が応にも印象を惹きつける、それは樹を中心とした空間だった。
樹―――桜だ。満開の桜が、穏やかな風に花びらを少しづつ散らしている。
「安全運転とは言いがたいものだったけれど、ご苦労さま」
腰をさすりながら、恨めしげに少女が言う。
「どういたしまして。とりあえず、思ってたよりはずっと速かったでしょ?」
柳に風、といった風情で受け流す。
ふん、と鼻で一つ笑って、途端。少女は稚気を捨てて、憔悴を纏う。
「ええ、びっくりしたわ。―――お陰様で、覚悟を決める暇もなかったくらい」
「だろうね」
火の消えるようにしぼむ少女に、しかし少年は対応を変えることはない。
そんな彼だから、少女は。
「……ああ、苛立たしいわ。その何もかもわかったような顔」
「見えてないでしょ?」
「寝てたって判るわよ、あんたの表情なんか」
徐々に、火が戻る。
少年は笑みを深める。
少女はふんぞり返って、玉座のごとく、車椅子に身を沈めた。
「手術の成功率……見えてるかどうかは、五分五分。だったら、どうせなら最初に見るものはとびきりドラマチックで美しくないと」
少年が、歌うように諳んじる。
ああ、と少女は頷いて、ゆっくりと目蓋を開く。
少女が光を失ってから、いつか少年に向かって嘯いた野望だ。
少年が言うほどにも、少年に嘯くほどにも、少女はきっと強くない。目を開けずにいれば希望は存置される。そんなことを真面目に考えてしまう程度には、弱い。
……でも、脆い自分が身をもたげるたびに、繕った自分が弱い心を鎧う。かくありたいと思ったイメージが、彼のそばにいると、手の届くものに見えてくる。
与えられることの救済。救い手は彼だった。
だから今、かつての理想を、一歩超えて。
「失明してから何年経ったかしら。私たち、成長期だものね」
少女の呟きに、少年が怪訝な顔をしてみせる。
怪訝な顔―――ああ、こんな顔をしていたのだったか、と記憶との齟齬を噛み締めて。
「最初に見るものはとびきりドラマチックで美しくないと―――宣言通り。あんた、桜に映える顔をしてるじゃない」
偉大なものに、きっとなる。
「ねえ、今日はどんな空?」
西陽の差す病室で、少女は少年に問い掛ける。ベッドの上で背を起こした体勢で、両目を瞑ったまま、目蓋を透かすように空を見つめながら。
「晴れてるよ。とても高く見える」
少年は少女の方も見ずに、車椅子を組み立てながら応じる。へえ、と少女の楽しそうな声。
「風は?」「少し吹いてる」「気温はどう?」「暖かいよ」
テンポよく重ねられる応酬には淀みがなく、既定事項の確認といった趣すら漂う。
「―――理解したわ。私が神に愛されてる、ってことを」
依然として目を瞑ったまま、少女は勝ち誇るがごとく言い放つ。
「……神に愛されてたら失明はしないと思うけど、ね」
そう呟く少年の後頭部に、直後、患者用のスリッパが突き刺さった。
「はん。偉大な者には試練が立ち塞がるものだっつーのよ。それも乗り越えられる範囲で最大のものが、ね」
「見えてもないのによく当てるね……」
頭をさすりながら零した言葉に、少女は嗜虐的な笑みを浮かべ―――すぐに真顔に戻る。
「あんたの頭を狙うくらい、寝てたって造作も無いことだわ。そんなことより、私いま凄くいいこと言ったんだけど」
腰に手を当てて、詰問するがごとく。
少年はひとつ笑うと、組み上げた車椅子を杖に立ち上がり、
「はいはい、感銘を受けました。じゃあほら―――そろそろ、確認しに行こうよ。君の偉大さを」
言って、少女の手をとり、車椅子に導いた。
少女は一瞬だけ躊躇いを見せて、しかし次の瞬間には不敵な笑みを形にして、
「ええ、偉大なる私の再起に同席させてあげる」
確信に満ちた響きで、そう言った。
両脇を木立に挟まれた林道、舗装こそされていないものの、整備された歩道を、車椅子が行く。
「遅いわねぇ。もっと速度出せないの?」
眉根を寄せて、少女が呟いた。
後ろで押す少年は僅かに苦笑し、
「出せないことはないけど、危ないから」
と、同じペースで歩を進める。
「そ。じゃ、安全運転で急ぎなさい」
目を瞑ったままで、少女が言う。硬い口調の中に、僅かに稚気が覗く。証明するように、口元には僅かな笑み。
少年は満足げに微笑むと、少しだけ足を早めた。お、と少女の呟きが漏れる。呼応するように、また僅かに増す速度。おお、と少女の歓声が上がる。どちらともなく、笑い声。
がたがたと揺れながら、じゃれあいを乗せて、車椅子は道を行く。
林道を抜けた先には、広場があった。さして広大ではないが、中央に植えられた大樹が否が応にも印象を惹きつける、それは樹を中心とした空間だった。
樹―――桜だ。満開の桜が、穏やかな風に花びらを少しづつ散らしている。
「安全運転とは言いがたいものだったけれど、ご苦労さま」
腰をさすりながら、恨めしげに少女が言う。
「どういたしまして。とりあえず、思ってたよりはずっと速かったでしょ?」
柳に風、といった風情で受け流す。
ふん、と鼻で一つ笑って、途端。少女は稚気を捨てて、憔悴を纏う。
「ええ、びっくりしたわ。―――お陰様で、覚悟を決める暇もなかったくらい」
「だろうね」
火の消えるようにしぼむ少女に、しかし少年は対応を変えることはない。
そんな彼だから、少女は。
「……ああ、苛立たしいわ。その何もかもわかったような顔」
「見えてないでしょ?」
「寝てたって判るわよ、あんたの表情なんか」
徐々に、火が戻る。
少年は笑みを深める。
少女はふんぞり返って、玉座のごとく、車椅子に身を沈めた。
「手術の成功率……見えてるかどうかは、五分五分。だったら、どうせなら最初に見るものはとびきりドラマチックで美しくないと」
少年が、歌うように諳んじる。
ああ、と少女は頷いて、ゆっくりと目蓋を開く。
少女が光を失ってから、いつか少年に向かって嘯いた野望だ。
少年が言うほどにも、少年に嘯くほどにも、少女はきっと強くない。目を開けずにいれば希望は存置される。そんなことを真面目に考えてしまう程度には、弱い。
……でも、脆い自分が身をもたげるたびに、繕った自分が弱い心を鎧う。かくありたいと思ったイメージが、彼のそばにいると、手の届くものに見えてくる。
与えられることの救済。救い手は彼だった。
だから今、かつての理想を、一歩超えて。
「失明してから何年経ったかしら。私たち、成長期だものね」
少女の呟きに、少年が怪訝な顔をしてみせる。
怪訝な顔―――ああ、こんな顔をしていたのだったか、と記憶との齟齬を噛み締めて。
「最初に見るものはとびきりドラマチックで美しくないと―――宣言通り。あんた、桜に映える顔をしてるじゃない」
偉大なものに、きっとなる。
2012年3月20日火曜日
『輪唱』
第十回SSコンペ(お題:『(書き手の)信仰』)
雲に翳る荒野、人のまばらな大地に、一人の少女が立っていた。
少女は何をするでもなく、目を瞑り、佇んでいる。その姿を認めて、周囲に居た人々が集まり出す。彼らはその表情に期待の色を浮かべ、誰が仕切るともなしに、少女を中心に円座を組み始めた。人だかりは意思を持つがごとく拡散し、各々が少女と直接対峙できるような、少女を中心とした大きな輪が形成されていく。
やがて、声無き期待が膨れ上がり、うねりとなって場を覆った。昂ぶりが最高潮に達する頃、集う者たちの求めに応じて、少女は物語を唄い始める。それは、僅かな差異を織り込みながら繰り返される恋の唄だった。五指で足りる程度の変奏しか持たない物語。聴衆は胸をふるわせて聴き入る。没入と追体験とに支配された、それは茫洋とした夢のような一時だった。
―――唄が終る。静寂が空間を満たす。終わりを迎えた後、少女は決して続きを唄わない。同じ唄を繰り返しても、物語の終幕、その先は決して誰も耳にすることがない。終幕の存在を解する聴衆たちは、だから語らう。残滓を味わうように、各々が夢を想起しながら、口々に。解釈、感想、批評。交わされる言葉に、確かな愛着が息づいていた。
静かな熱狂に包まれて、夜は過ぎていく。
穏やかな狂騒、熱を持った停滞。繰り返される物語と、それを中心として為される交感。幾夜を満たしてきたそれらはしかし、永遠のものではなかった。
―――続けられるという事実と、続けたいという想いとの間には、無間の空隙が広がっている。確かな実体を持たぬ物語を投影し、像を成すためのパースペクティブ、世界の枠組み。それは人の数と同じだけ存在し、しかも刻一刻と変化を遂げる性質のもので、だから彼らには、初めから永遠が与えられていた。だけれど、砂を食むように褪せた物語を咀嚼し続けることの空虚さに、或いはもっと単純に、新たな少女物語の出現に……彼らの心は乖離を志向した。
唄う少女が、唄える少女が一人であれば、それは世界の全てで在れたのかもしれない。実際には、彼女たちは日を追う毎に増えていき、世界には刻々と唄が増えていた。語られる世界は偏りをもって分割され、その配分もまた時と共に移ろう。盛衰はその周期を狭め、加熱と冷却はもはや同時にすら見えた。
一瞬で過去に追いやられた唄の周りには、僅かな者だけが残された。
顧みられることのない唄。狂熱の残り火すらも絶えた、その後に残された者たちは、やがて歌い始めた。かつて聴いた物語の続き、変奏、補完。捨象を経て純化へと至る、畸形じみた産物すらもそこには在った。或いは郷愁、或いは哀悼。個々の感慨を乗せた歌は狂熱の残滓を掬い取り、人の輪はやがて、再びその半径を増してゆく。唄う少女を中心として始まった輪は、やがてその外縁に新たな輪を形成するに至った。フラクタルは重層し、やがて最外縁は彼方へと遠ざかってゆく。継嗣は変質し、唄は歌を生む。ゆるやかに広がる熱は、外から来た輪の外縁と接し、融けていく。
バリエーションが世界を満たし、遂に人々は―――唄を忘れた。
それでもなお、少女は原初の唄を唄い続ける。
聴衆の減じた小さな輪に、しかし少女は何らの感慨を見せることもない。たとえ聴く者が絶えようとも、なお。そしてまた、聴衆の莫大な増加にも同様に。栄枯の過程に少女が何を想ったかなど、余人に解ることではなく。そも、彼女は何かを想っていたのか、すら。
だから、とも言えるし、それでも、とも言える。うたわれたものの変奏が、いつだって世界を作ってきた。
―――だからこそ、この物語の結末は、そのようにある。
雲に翳る荒野、人のまばらな大地に、一人の少女が立っていた。
少女は何をするでもなく、目を瞑り、佇んでいる。その姿を認めて、周囲に居た人々が集まり出す。彼らはその表情に期待の色を浮かべ、誰が仕切るともなしに、少女を中心に円座を組み始めた。人だかりは意思を持つがごとく拡散し、各々が少女と直接対峙できるような、少女を中心とした大きな輪が形成されていく。
やがて、声無き期待が膨れ上がり、うねりとなって場を覆った。昂ぶりが最高潮に達する頃、集う者たちの求めに応じて、少女は物語を唄い始める。それは、僅かな差異を織り込みながら繰り返される恋の唄だった。五指で足りる程度の変奏しか持たない物語。聴衆は胸をふるわせて聴き入る。没入と追体験とに支配された、それは茫洋とした夢のような一時だった。
―――唄が終る。静寂が空間を満たす。終わりを迎えた後、少女は決して続きを唄わない。同じ唄を繰り返しても、物語の終幕、その先は決して誰も耳にすることがない。終幕の存在を解する聴衆たちは、だから語らう。残滓を味わうように、各々が夢を想起しながら、口々に。解釈、感想、批評。交わされる言葉に、確かな愛着が息づいていた。
静かな熱狂に包まれて、夜は過ぎていく。
穏やかな狂騒、熱を持った停滞。繰り返される物語と、それを中心として為される交感。幾夜を満たしてきたそれらはしかし、永遠のものではなかった。
―――続けられるという事実と、続けたいという想いとの間には、無間の空隙が広がっている。確かな実体を持たぬ物語を投影し、像を成すためのパースペクティブ、世界の枠組み。それは人の数と同じだけ存在し、しかも刻一刻と変化を遂げる性質のもので、だから彼らには、初めから永遠が与えられていた。だけれど、砂を食むように褪せた物語を咀嚼し続けることの空虚さに、或いはもっと単純に、新たな少女物語の出現に……彼らの心は乖離を志向した。
唄う少女が、唄える少女が一人であれば、それは世界の全てで在れたのかもしれない。実際には、彼女たちは日を追う毎に増えていき、世界には刻々と唄が増えていた。語られる世界は偏りをもって分割され、その配分もまた時と共に移ろう。盛衰はその周期を狭め、加熱と冷却はもはや同時にすら見えた。
一瞬で過去に追いやられた唄の周りには、僅かな者だけが残された。
顧みられることのない唄。狂熱の残り火すらも絶えた、その後に残された者たちは、やがて歌い始めた。かつて聴いた物語の続き、変奏、補完。捨象を経て純化へと至る、畸形じみた産物すらもそこには在った。或いは郷愁、或いは哀悼。個々の感慨を乗せた歌は狂熱の残滓を掬い取り、人の輪はやがて、再びその半径を増してゆく。唄う少女を中心として始まった輪は、やがてその外縁に新たな輪を形成するに至った。フラクタルは重層し、やがて最外縁は彼方へと遠ざかってゆく。継嗣は変質し、唄は歌を生む。ゆるやかに広がる熱は、外から来た輪の外縁と接し、融けていく。
バリエーションが世界を満たし、遂に人々は―――唄を忘れた。
それでもなお、少女は原初の唄を唄い続ける。
聴衆の減じた小さな輪に、しかし少女は何らの感慨を見せることもない。たとえ聴く者が絶えようとも、なお。そしてまた、聴衆の莫大な増加にも同様に。栄枯の過程に少女が何を想ったかなど、余人に解ることではなく。そも、彼女は何かを想っていたのか、すら。
だから、とも言えるし、それでも、とも言える。うたわれたものの変奏が、いつだって世界を作ってきた。
―――だからこそ、この物語の結末は、そのようにある。
2012年3月5日月曜日
『なんでもなく』
第九回SSコンペ(お題:『卒業』)
「卒業、おめでとうございます」
教室で名残を惜しむ会話を交わし、最後にと部室へ私物を回収しに向かった少年を出迎えたのは、後輩からの祝辞だった。今日は卒業式で、部室には誰もいないはずだ。だというのに、少女はいつも通りの位置に座り、少年の訪れを待っていた。扉を開けたその体勢のままで、少年は暫し硬直する。数秒の間を置いて、少年は口を開いた。
「……え? いま、何と?」
予期した反応からずれた物言いだったのか、少女の表情が呆れを帯びる。全く、と腰に手を当て、軽く首を振る。
「何って……こっちの台詞ですよそれ。何が何ですかって話です」
「ああ、いや―――お前の口から祝福の言葉が出てきた、という事実に脳が拒否反応をな。すまん」
真顔を作って、少年は言う。だが、口の端が僅かに吊り上がっていることに、少女は気付いた。ため息をひとつ、これだから、と呟きを漏らしつつ、しかし、少女の口の端もまた、同様に吊り上がる。
「どんだけ失礼ですか。……全く、最後くらいは真面目に送りだしてあげようという後輩心、たったいま残らず消滅しましたよ。ここから先は通常営業です」
機嫌の悪い風を装い、そう告げる。対して少年はにやりと笑い、
「悪いな。最後まで俺とお前はこんな感じだ」
「ええ、そのようですね。不本意ながら」
少女もまた、応えるように笑みを浮かべた。皮肉げな笑みが対称の像を結ぶ。どちらともなく、笑い声を漏らした。
「まあ、これで最後だ。不本意かも知らんが、我慢して付き合ってくれ」
少女と向かいの座席に腰を下ろし、少年が言う。
「嫌々付き合ってあげるとします。わたし、優しい後輩ですから」
そう言いながらも、少女の声から、繕った不機嫌さは失せていた。
「優しい後輩を持てて幸せだなあ、俺」
「でしょう? 光栄に思うといいです」
くくく、と押し殺した笑みを少年は漏らす。ふふふ、と少女も追随する。飽きるほど繰り返してきた日常の、最後の一回が始まった。暫しの歓談。最後とはいえ、交わすのはいつも通りの馬鹿話。
「―――日が暮れてきたな」
「ですね。随分喋ったものです」
部室の窓からは夕日が射し、二人の影は部室の壁際に達するほど。そろそろ校舎から追い出される時間帯。どちらともなく、居住まいを正す。こほん、と咳払いをひとつして、少年は真面目ぶった体で告げた。
「さて。最後になった訳だが、何か言っておくことはないか。恨み言でも何でもいいぞ」
「いえ、特になにも」
即座に、無表情に言ってのけた。少年の体が僅かに傾ぐ。
「……そうか? いやまあ確かに今生の別れって訳じゃあないが、ちょっと寂しい感も否定できないところだ」
その言葉に、少女は大きくため息をつく。
「ドラマティックな別れの演出を台無しにしてくれたのは何処の誰ですか、全く。最後にそんなこと言うくらいなら大人しくお芝居に乗ってくれれば良かったんですよ」
じっとり、と音の出そうな視線で睨めつけて、そう言った。道理だな、と少年は笑う。全くもう、と少女は頭を振る。ややあって、少年は真面目な表情を作り直し、こう告げた。
「―――なあ。俺とお前、こんな風に馬鹿みたいなこと喋ってばっかりだったけどさ。こんな風になった切っ掛け、覚えてるか?」
真剣な質問だと見なしたのだろう、少年の問いかけに、少女は僅かに逡巡し、
「……いいえ」
遠慮がちに否定を返す。少年は笑みを浮かべて、
「俺もだ」
胸を張りさえしながら、誇らしげに言ってのけた。少女の表情が、呆れに染まる。いよいよ、少年の笑みは濃くなるばかり。
「思わせぶりなこと言っておいて、それですか」
「違う違う。始まりが曖昧だったんだから、終わりもそんな感じにしておくのが俺たちらしいかな、ってさ。特別に何かする、ってんじゃなくて。明日もまた会うかのように、ってな」
ああ、なるほど、と少女が呟く。だろう、と少年が笑う。
「終わりくらいハッキリと、とも言えそうなものですけど……まあ、いいでしょう。先輩の顔を立てておいてあげます」
「重ね重ね、いい後輩を持てて幸せだよ、俺は」
「でしょう? もっともっと感謝してもらいたいものですね」
言いながら、少女は机に掛けていた自分の鞄を背負う。
「帰るのか?」
少年の問いかけに、少女は少し驚いた風に目を見開き、そして優しげに微笑して、
「一緒に帰りましょうか?」
少年はといえば、にやりと笑みを浮かべ。
「一緒に帰ったこと、無かったろ?」
そして、どちらともなく、笑い声を漏らした。
「……ふふ。帰るのか、って訊かれた覚えもありませんけど」
「まあ、最後の一回くらい、何か記憶に残ることをしておいても良かろう」
「おや。舌の根も乾かぬうちに、というのはこの事ですね」
「……察しろよ。多少は寂しいんだ、俺も」
「その寂しさの半分くらいは、わたしも寂しいですよ」
「冷血漢め」
「女ですけど」
そして、笑い声。
いつも通りの日常は、少しの変奏を残して、夕闇に消えた。
「卒業、おめでとうございます」
教室で名残を惜しむ会話を交わし、最後にと部室へ私物を回収しに向かった少年を出迎えたのは、後輩からの祝辞だった。今日は卒業式で、部室には誰もいないはずだ。だというのに、少女はいつも通りの位置に座り、少年の訪れを待っていた。扉を開けたその体勢のままで、少年は暫し硬直する。数秒の間を置いて、少年は口を開いた。
「……え? いま、何と?」
予期した反応からずれた物言いだったのか、少女の表情が呆れを帯びる。全く、と腰に手を当て、軽く首を振る。
「何って……こっちの台詞ですよそれ。何が何ですかって話です」
「ああ、いや―――お前の口から祝福の言葉が出てきた、という事実に脳が拒否反応をな。すまん」
真顔を作って、少年は言う。だが、口の端が僅かに吊り上がっていることに、少女は気付いた。ため息をひとつ、これだから、と呟きを漏らしつつ、しかし、少女の口の端もまた、同様に吊り上がる。
「どんだけ失礼ですか。……全く、最後くらいは真面目に送りだしてあげようという後輩心、たったいま残らず消滅しましたよ。ここから先は通常営業です」
機嫌の悪い風を装い、そう告げる。対して少年はにやりと笑い、
「悪いな。最後まで俺とお前はこんな感じだ」
「ええ、そのようですね。不本意ながら」
少女もまた、応えるように笑みを浮かべた。皮肉げな笑みが対称の像を結ぶ。どちらともなく、笑い声を漏らした。
「まあ、これで最後だ。不本意かも知らんが、我慢して付き合ってくれ」
少女と向かいの座席に腰を下ろし、少年が言う。
「嫌々付き合ってあげるとします。わたし、優しい後輩ですから」
そう言いながらも、少女の声から、繕った不機嫌さは失せていた。
「優しい後輩を持てて幸せだなあ、俺」
「でしょう? 光栄に思うといいです」
くくく、と押し殺した笑みを少年は漏らす。ふふふ、と少女も追随する。飽きるほど繰り返してきた日常の、最後の一回が始まった。暫しの歓談。最後とはいえ、交わすのはいつも通りの馬鹿話。
「―――日が暮れてきたな」
「ですね。随分喋ったものです」
部室の窓からは夕日が射し、二人の影は部室の壁際に達するほど。そろそろ校舎から追い出される時間帯。どちらともなく、居住まいを正す。こほん、と咳払いをひとつして、少年は真面目ぶった体で告げた。
「さて。最後になった訳だが、何か言っておくことはないか。恨み言でも何でもいいぞ」
「いえ、特になにも」
即座に、無表情に言ってのけた。少年の体が僅かに傾ぐ。
「……そうか? いやまあ確かに今生の別れって訳じゃあないが、ちょっと寂しい感も否定できないところだ」
その言葉に、少女は大きくため息をつく。
「ドラマティックな別れの演出を台無しにしてくれたのは何処の誰ですか、全く。最後にそんなこと言うくらいなら大人しくお芝居に乗ってくれれば良かったんですよ」
じっとり、と音の出そうな視線で睨めつけて、そう言った。道理だな、と少年は笑う。全くもう、と少女は頭を振る。ややあって、少年は真面目な表情を作り直し、こう告げた。
「―――なあ。俺とお前、こんな風に馬鹿みたいなこと喋ってばっかりだったけどさ。こんな風になった切っ掛け、覚えてるか?」
真剣な質問だと見なしたのだろう、少年の問いかけに、少女は僅かに逡巡し、
「……いいえ」
遠慮がちに否定を返す。少年は笑みを浮かべて、
「俺もだ」
胸を張りさえしながら、誇らしげに言ってのけた。少女の表情が、呆れに染まる。いよいよ、少年の笑みは濃くなるばかり。
「思わせぶりなこと言っておいて、それですか」
「違う違う。始まりが曖昧だったんだから、終わりもそんな感じにしておくのが俺たちらしいかな、ってさ。特別に何かする、ってんじゃなくて。明日もまた会うかのように、ってな」
ああ、なるほど、と少女が呟く。だろう、と少年が笑う。
「終わりくらいハッキリと、とも言えそうなものですけど……まあ、いいでしょう。先輩の顔を立てておいてあげます」
「重ね重ね、いい後輩を持てて幸せだよ、俺は」
「でしょう? もっともっと感謝してもらいたいものですね」
言いながら、少女は机に掛けていた自分の鞄を背負う。
「帰るのか?」
少年の問いかけに、少女は少し驚いた風に目を見開き、そして優しげに微笑して、
「一緒に帰りましょうか?」
少年はといえば、にやりと笑みを浮かべ。
「一緒に帰ったこと、無かったろ?」
そして、どちらともなく、笑い声を漏らした。
「……ふふ。帰るのか、って訊かれた覚えもありませんけど」
「まあ、最後の一回くらい、何か記憶に残ることをしておいても良かろう」
「おや。舌の根も乾かぬうちに、というのはこの事ですね」
「……察しろよ。多少は寂しいんだ、俺も」
「その寂しさの半分くらいは、わたしも寂しいですよ」
「冷血漢め」
「女ですけど」
そして、笑い声。
いつも通りの日常は、少しの変奏を残して、夕闇に消えた。
2012年1月30日月曜日
『かけらむすび』
第七回SSコンペ(お題:『雪』)
「行ってきまーす」
家の中に声を投げて、玄関を押し開ける。途端、外気が勢い良く吹き込んできた。
う、と唸って身震いする。午前7時半の空気は氷点を下回っており、外気に触れた瞬間、私は肌が張るような感覚を覚えた。
しばし無言で佇んだのち、薄く開いた玄関扉を元に戻して、玄関に立ち尽くす。
やや暖かさを取り戻す空気に、少しほっとする反面、こういうことすると却って後の寒さが強調されるんだよなあ、とため息をつく。
「せめて、二学期の一限くらいは回避できるようにするのが人情ってもんでしょうが……。雪国の大学なんだからさあ、そこんとこはもうちょっと配慮を……」
全く、何が悲しくて早朝から大学に登校せねばならないのか。進学が決まった頃には、これで寒い朝は寝ていられる、と何も知らず喜んだものだというのに。
家未満・外気以上の微妙な空気の中、体を震わせながらそんな呪詛を吐いていると、
「ごめんお姉ちゃん! 待った?」
妹がどたどたと足音を鳴らして、私の傍へと走ってきた。
上下のスキーウェアに、分厚い手袋。そういえば小学校にもスキー学習はあったなあ、と考える。
「んーん、いま出てきたとこ。じゃあ、行こっか」
小さな妹の手を引いて、私は改めて、玄関の扉を押し開けた。
***
妹と連れ立って、早朝の冬道をゆく。
昨晩はそれなりに雪が降ったのだろう、あちこちの家に雪かきをする人の姿があった。
道すがら、ご近所さんと挨拶を交わしたり、妹の友人たちが合流してきて賑やかになったり。
保母さんみたいだなあ、などと思いつつ、姦しい少女たちの声に引き摺られるようにして歩を進めた。
そんなこんなで、ある家の前に差し掛かった時。
妹とその友人たちは唐突に歩みを止めると、その家の車庫に向かって走っていった。
止める間もなく、彼女らは車庫のシャッターを開きにかかる。
あまりの展開にしばし呆気にとられていたものの、これは止めねばと思い直し、小走りに駆け寄ろうとしたのだが、
「ああ、いいんですよ。家の者もわかってますから」
家の持ち主だろう、柔和そうなおじいさんが戸口から声を掛けてきた。
よっぽど困惑した表情をしていたのだろうか、お爺さんは微笑みながら、目で車庫の方を見るよう促す。
見れば、彼女らは車庫の中から、膝丈程度の雪玉を運び出していた。
「……もしかして、雪だるま?」
そう呟くと、彼女らとお爺さんはにっこり笑って、頷いた。
***
道連れがひとり―――いや、胴体だけだから半人か―――増えての、雪中行軍。
なるべく綺麗な雪だけを巻き込もうとしているのだろう、新雪の上を選んで代わりばんこに雪玉を転がす一団の、少し後ろをついて歩く。
私が小さいころもこうやって登校したことがあったなあ、と郷愁に浸りつつ。
「……でも、どうして雪だるまを預かってもらってるの?」
そう訊くと、彼女らは顔を見合わせてから、楽しげに経緯を説明し始めた。
事の顛末を聞いて、納得する。
曰く、道路で雪だるまを転がすのは危ないから、車の通らない道だけでやりなさいと言われた。
曰く、そうなると雪だるまを道に放置しなければならなくなるが、道端の雪だるまは悪戯の格好の餌食である。
曰く、雪玉を途方に暮れていると、例の家のお爺さんが気を効かせて、車庫を開放してくれた。
これも町内会の連携の成せる業なのか、ならばウチでも、と同じように雪だるまを保管させてくれる家がもう一軒できたのだという。
こうして、彼女らは学校への行きと帰り、二箇所の家の間を雪だるまを転がしながら歩くことになったらしい。
「そっか。……でも、放課後にでも空き地に繰り出して転がしてやれば、すぐにでも完成させられるんじゃない?」
学童用の歩道で結ばれた二軒の間は、決して長くない。加えて、今年の雪は乾いている。
毎日転がしているとはいえ、ぼた雪でもなければ、短距離で大きくするのは難しいだろう。
そんなことを考えての提案だったが、彼女らは一様に首を振り、
「ううん。ちょっとずつ一緒に大きくなるの、楽しいから」
異口同音に、そのようなことを言った。
「なるほど。……なるほど」
返ってきた言葉に、唸らされる。
「お姉ちゃん、ちょっと感心しちゃったぜ」
軽口めかして言ってはみたが、本当に、感心したのだ。
***
それからも、彼女らの雪だるま作りは続いた。
毎日一緒に登校していた訳ではないけれど、徐々に大きくなっていく雪だるまを見ることは、私の楽しみにもなっていた。
膝丈だった雪玉が腰の大きさになり、胸の近くまで到達する頃には、雪の季節は半分を折り返したところまで来ていた。
半身はこれで完成、として。そこからまた、小さな雪玉を転がす日々が続く。
大きな雪玉を転がす光景は、当初こそ通行人に驚きの反応をもって迎えられたものの、毎日のように繰り返すうち、朝の風物詩として微笑ましく見守られるようになった。
そんなふうに日々を重ねて、二つ目の雪玉が彼女らの胸ほどに達する頃には、季節は春になりかけていた。
もう冬ではない、と主張する、暖かな日差し。
残雪の照り返しが目に痛い、そんな晩冬、或いは初春の日。
遂に、我々の(心情的には私も一員である!)雪だるまがパイルダーオンされる時がやってきた。
「……で、本当にお姉ちゃんがやっちゃっていいの?」
やや小さい方の雪玉を抱えながら、問うてみる。
一員だ、などと言ってはみたものの、私自身は一度も転がしに参加していない。
気恥ずかしかったから、というのもあり、彼女らだけの手で完成させるべきだと思った、というのもあり。
動機はどもかく、最後の最後に私の手を入れてしまうというのは、いかがなものか。
「わたしたち、届かないし」
うんうん、と一斉に頷く少女ら。
「うん。落として割っちゃったら嫌だもんね」
痛そうだもんねー、と飛び跳ねながら言う。
頭が割れたら大変だ、と口々に。
「お姉ちゃんなら安心だもの」
そして止めに、この台詞。
お姉ちゃんはすごいもんねー、と誉めそやす少女らを前にして、これ以上固辞することが、誰にできようか。
「……左様で」
ハードル上げてくれるなあ、と嘆きつつ、少しでもかっこよく首が座るよう、私は微調整の構えに入った。
***
完成した雪だるまは暫くの間、近所の名物となった。
元より、雪玉を転がす少女らの姿は有名だった。あの雪だるまが遂に完成したのかと、わざわざ見に来た人も、きっと居たことだろう。
悪戯されないようにと、件のお爺さんの家に飾られた雪だるま。所有権を巡って二人のご老人が戦ったという噂もあるが、置いておいて。
少女らと共に歩み(転がり?)、立つことが叶った雪だるまだけれど、しかし既に季節は春。
この先に別れが待っていることは、誰もが理解していた。
「ねえお姉ちゃん。あの雪だるま、あのままにしておけないかなあ」
「んー……。流石に難しいと思うなあ。業務用冷凍庫でもない限り……」
「そっかー……」
私が小さい頃も、雪で作ったものが融けていくのを見るのは、辛かった記憶がある。
何とかしてあげたい、とは思うものの。現実に対処法があるかと言われれば、ない、と答えるしかない。
お爺さんが気を利かせて車庫の中に移してくれたけれど、直射日光が当たらなくとも、気温で融ける瞬間は訪れる。
別れは不可避。とはいえ、このままその瞬間を待つのも癪だなあ……などと考えて、しばらく経った、ある日。
何気なくテレビを観ていて、
「―――あ、これだ」
閃いた。
***
雪だるまが水に還る瞬間を、皆で見送った。
外に出された雪だるまは、春の陽気に炙られて、呆気無くその姿を消した。
やはりと言うべきか、消沈する少女たちに、私は一つずつ、あるものを渡した。
それは、手のひらサイズの、雪だるま形の容器。
首を傾げる彼女らに、開けてみな、と促すと、
「―――わ。中に雪が入ってる」
「ねえ、これって―――」
少女たちの期待の眼差しが、目に眩しい。
それは、十数年越しの、過去の私の眼差しでもあったのだろう。
「うん。みんなが作った、雪だるま」
ひと掬いずつ拝借した雪だるまの欠片を、容器に納めただけのもの。
沖縄に雪を―――色々な自治体で行われている雪の輸送事業、その形を模倣させてもらった。
「もしもまた来年、雪だるまが作りたくなったらさ。その雪を混ぜ込んで、また一から転がそう」
そうやって続いていけばいいな、と夢想する。彼女らが私くらいの年になっても―――というのは、いささか気の長すぎる話であるけれど。
人間の代謝と連続性、なんて話は無粋だろう。魂、とでも言っておけばいい。そういうものだ、たぶん。
「その時はまた、仲間に入れてくれる?」
こうして、私たちの冬は終わった。
春がきて、夏がきて、秋がきて、また冬がくる。
証をひとつ、持ち越して。その時をまた、楽しみに待とう。
「行ってきまーす」
家の中に声を投げて、玄関を押し開ける。途端、外気が勢い良く吹き込んできた。
う、と唸って身震いする。午前7時半の空気は氷点を下回っており、外気に触れた瞬間、私は肌が張るような感覚を覚えた。
しばし無言で佇んだのち、薄く開いた玄関扉を元に戻して、玄関に立ち尽くす。
やや暖かさを取り戻す空気に、少しほっとする反面、こういうことすると却って後の寒さが強調されるんだよなあ、とため息をつく。
「せめて、二学期の一限くらいは回避できるようにするのが人情ってもんでしょうが……。雪国の大学なんだからさあ、そこんとこはもうちょっと配慮を……」
全く、何が悲しくて早朝から大学に登校せねばならないのか。進学が決まった頃には、これで寒い朝は寝ていられる、と何も知らず喜んだものだというのに。
家未満・外気以上の微妙な空気の中、体を震わせながらそんな呪詛を吐いていると、
「ごめんお姉ちゃん! 待った?」
妹がどたどたと足音を鳴らして、私の傍へと走ってきた。
上下のスキーウェアに、分厚い手袋。そういえば小学校にもスキー学習はあったなあ、と考える。
「んーん、いま出てきたとこ。じゃあ、行こっか」
小さな妹の手を引いて、私は改めて、玄関の扉を押し開けた。
***
妹と連れ立って、早朝の冬道をゆく。
昨晩はそれなりに雪が降ったのだろう、あちこちの家に雪かきをする人の姿があった。
道すがら、ご近所さんと挨拶を交わしたり、妹の友人たちが合流してきて賑やかになったり。
保母さんみたいだなあ、などと思いつつ、姦しい少女たちの声に引き摺られるようにして歩を進めた。
そんなこんなで、ある家の前に差し掛かった時。
妹とその友人たちは唐突に歩みを止めると、その家の車庫に向かって走っていった。
止める間もなく、彼女らは車庫のシャッターを開きにかかる。
あまりの展開にしばし呆気にとられていたものの、これは止めねばと思い直し、小走りに駆け寄ろうとしたのだが、
「ああ、いいんですよ。家の者もわかってますから」
家の持ち主だろう、柔和そうなおじいさんが戸口から声を掛けてきた。
よっぽど困惑した表情をしていたのだろうか、お爺さんは微笑みながら、目で車庫の方を見るよう促す。
見れば、彼女らは車庫の中から、膝丈程度の雪玉を運び出していた。
「……もしかして、雪だるま?」
そう呟くと、彼女らとお爺さんはにっこり笑って、頷いた。
***
道連れがひとり―――いや、胴体だけだから半人か―――増えての、雪中行軍。
なるべく綺麗な雪だけを巻き込もうとしているのだろう、新雪の上を選んで代わりばんこに雪玉を転がす一団の、少し後ろをついて歩く。
私が小さいころもこうやって登校したことがあったなあ、と郷愁に浸りつつ。
「……でも、どうして雪だるまを預かってもらってるの?」
そう訊くと、彼女らは顔を見合わせてから、楽しげに経緯を説明し始めた。
事の顛末を聞いて、納得する。
曰く、道路で雪だるまを転がすのは危ないから、車の通らない道だけでやりなさいと言われた。
曰く、そうなると雪だるまを道に放置しなければならなくなるが、道端の雪だるまは悪戯の格好の餌食である。
曰く、雪玉を途方に暮れていると、例の家のお爺さんが気を効かせて、車庫を開放してくれた。
これも町内会の連携の成せる業なのか、ならばウチでも、と同じように雪だるまを保管させてくれる家がもう一軒できたのだという。
こうして、彼女らは学校への行きと帰り、二箇所の家の間を雪だるまを転がしながら歩くことになったらしい。
「そっか。……でも、放課後にでも空き地に繰り出して転がしてやれば、すぐにでも完成させられるんじゃない?」
学童用の歩道で結ばれた二軒の間は、決して長くない。加えて、今年の雪は乾いている。
毎日転がしているとはいえ、ぼた雪でもなければ、短距離で大きくするのは難しいだろう。
そんなことを考えての提案だったが、彼女らは一様に首を振り、
「ううん。ちょっとずつ一緒に大きくなるの、楽しいから」
異口同音に、そのようなことを言った。
「なるほど。……なるほど」
返ってきた言葉に、唸らされる。
「お姉ちゃん、ちょっと感心しちゃったぜ」
軽口めかして言ってはみたが、本当に、感心したのだ。
***
それからも、彼女らの雪だるま作りは続いた。
毎日一緒に登校していた訳ではないけれど、徐々に大きくなっていく雪だるまを見ることは、私の楽しみにもなっていた。
膝丈だった雪玉が腰の大きさになり、胸の近くまで到達する頃には、雪の季節は半分を折り返したところまで来ていた。
半身はこれで完成、として。そこからまた、小さな雪玉を転がす日々が続く。
大きな雪玉を転がす光景は、当初こそ通行人に驚きの反応をもって迎えられたものの、毎日のように繰り返すうち、朝の風物詩として微笑ましく見守られるようになった。
そんなふうに日々を重ねて、二つ目の雪玉が彼女らの胸ほどに達する頃には、季節は春になりかけていた。
もう冬ではない、と主張する、暖かな日差し。
残雪の照り返しが目に痛い、そんな晩冬、或いは初春の日。
遂に、我々の(心情的には私も一員である!)雪だるまがパイルダーオンされる時がやってきた。
「……で、本当にお姉ちゃんがやっちゃっていいの?」
やや小さい方の雪玉を抱えながら、問うてみる。
一員だ、などと言ってはみたものの、私自身は一度も転がしに参加していない。
気恥ずかしかったから、というのもあり、彼女らだけの手で完成させるべきだと思った、というのもあり。
動機はどもかく、最後の最後に私の手を入れてしまうというのは、いかがなものか。
「わたしたち、届かないし」
うんうん、と一斉に頷く少女ら。
「うん。落として割っちゃったら嫌だもんね」
痛そうだもんねー、と飛び跳ねながら言う。
頭が割れたら大変だ、と口々に。
「お姉ちゃんなら安心だもの」
そして止めに、この台詞。
お姉ちゃんはすごいもんねー、と誉めそやす少女らを前にして、これ以上固辞することが、誰にできようか。
「……左様で」
ハードル上げてくれるなあ、と嘆きつつ、少しでもかっこよく首が座るよう、私は微調整の構えに入った。
***
完成した雪だるまは暫くの間、近所の名物となった。
元より、雪玉を転がす少女らの姿は有名だった。あの雪だるまが遂に完成したのかと、わざわざ見に来た人も、きっと居たことだろう。
悪戯されないようにと、件のお爺さんの家に飾られた雪だるま。所有権を巡って二人のご老人が戦ったという噂もあるが、置いておいて。
少女らと共に歩み(転がり?)、立つことが叶った雪だるまだけれど、しかし既に季節は春。
この先に別れが待っていることは、誰もが理解していた。
「ねえお姉ちゃん。あの雪だるま、あのままにしておけないかなあ」
「んー……。流石に難しいと思うなあ。業務用冷凍庫でもない限り……」
「そっかー……」
私が小さい頃も、雪で作ったものが融けていくのを見るのは、辛かった記憶がある。
何とかしてあげたい、とは思うものの。現実に対処法があるかと言われれば、ない、と答えるしかない。
お爺さんが気を利かせて車庫の中に移してくれたけれど、直射日光が当たらなくとも、気温で融ける瞬間は訪れる。
別れは不可避。とはいえ、このままその瞬間を待つのも癪だなあ……などと考えて、しばらく経った、ある日。
何気なくテレビを観ていて、
「―――あ、これだ」
閃いた。
***
雪だるまが水に還る瞬間を、皆で見送った。
外に出された雪だるまは、春の陽気に炙られて、呆気無くその姿を消した。
やはりと言うべきか、消沈する少女たちに、私は一つずつ、あるものを渡した。
それは、手のひらサイズの、雪だるま形の容器。
首を傾げる彼女らに、開けてみな、と促すと、
「―――わ。中に雪が入ってる」
「ねえ、これって―――」
少女たちの期待の眼差しが、目に眩しい。
それは、十数年越しの、過去の私の眼差しでもあったのだろう。
「うん。みんなが作った、雪だるま」
ひと掬いずつ拝借した雪だるまの欠片を、容器に納めただけのもの。
沖縄に雪を―――色々な自治体で行われている雪の輸送事業、その形を模倣させてもらった。
「もしもまた来年、雪だるまが作りたくなったらさ。その雪を混ぜ込んで、また一から転がそう」
そうやって続いていけばいいな、と夢想する。彼女らが私くらいの年になっても―――というのは、いささか気の長すぎる話であるけれど。
人間の代謝と連続性、なんて話は無粋だろう。魂、とでも言っておけばいい。そういうものだ、たぶん。
「その時はまた、仲間に入れてくれる?」
こうして、私たちの冬は終わった。
春がきて、夏がきて、秋がきて、また冬がくる。
証をひとつ、持ち越して。その時をまた、楽しみに待とう。
2012年1月16日月曜日
『起き抜けイライラ棒』
第6回SSコンペ(お題:『寝起きの出来事』)
目覚めを迎える直前の、この微睡みこそが醍醐味なのだ―――と、曖昧に拡散した意識の中で思う。半ば覚醒し、半ば眠りに就いたままの状態で、顕在しているとも潜在しているともつかない自我認識を弄ぶ、この時間こそが一日で最も尊い瞬間なのだと、僕は信じて疑わない。
だからこそ、目覚めに際して感じた片腕の痺れに、僕は強い違和を感じた。身体的な異状があれば、曖昧に覚醒した状態を保つことは難しくなる。均衡を保とうにも、すぐに目を覚ましてしまう。それを知っているから、僕はセルフ腕枕で腕を痺れさせるのを避けるため、両腕共に掛け布団の下へとしっかり収納してから眠りに就いているはずなのだった。寝起きの痺れなんてものを最後に感じたのはいつだったろう、と疑問に思えるほど、久しく経験していない現象だ。
―――などと、小難しく現状を分析している時点で、既にして覚醒は始まってしまったと見て間違いない。ここから気持ちのいい状態まで退行するのは至難の業だろう、と考える。僕は諦めて目を覚まし、現状を確認する覚悟を決めた。瞼を開き、痺れている左腕を見る。
そこには、僕の腕を背中で下敷きにしつつ、熟睡する姉がいた。
僅かに残っていた眠気は、その光景を認識した瞬間に吹き飛んだ。脳内に警報が響き渡る。本能はヤバいと喚き、理性は可及的速やかに状況を脱せよと急かしてくる。いずれにせよ、判断と行動が急務であると悟った。
まず僕が行ったのは、周囲の状況確認だった。目線だけを動かして確認を行う。現在地が確かに僕の部屋であることを認識して、軽く息をついた。間違いなく、ここは僕の部屋だ。もしも万が一、寝ぼけた僕が姉の布団に侵入してしまっていたのだとすれば、これはもう言い訳の利かない状況で、起きた姉に申し開きをする暇もなく殺されるしかないだろう。だが、姉の方が間違えて―――或いは何か意図があるのかもしれないが―――侵入してきたというのなら、これは僕の側に利がある。少なくとも、僕が一方的に悪いという話にはなるまい。我ながら弱気にも程がある分析だが、戦場で長く生き残れるのは臆病者だけなのだ。
さて、僕側の過失ではないと知れた訳だが、それでも状況はオールグリーンとは言いがたい。目覚めた姉が寝ぼけた状態でこの状況を認識したら、どうなるか。反射的に殴られるか、締められるか、極められるか―――少なくとも、僕が痛みを受けるであろうことは明白だ。理性の薄まった時の姉はひらすらに怖い。時間切れまで待つだけでは駄目だ、と認識せざるを得ない。つまり、ここが僕の部屋だろうが姉の部屋だろうが、どのみち退避する以外に道は無かったらしい、ということだ。
そう考えると、姉が起きる前に部屋を辞し、「何で姉さんが僕の部屋で寝てるのさ?」と困り顔で揶揄するくらいの線が適当なように思える。意識のはっきりした姉相手なら、理不尽な暴力を被ることはないはずだ。……たぶん、きっと。
方針が纏まったので、脱出を試みる。幸いと言っていいのかどうか、圧し潰されているのは片腕だけだ。もしも体全体で抱き着かれていれば詰みだったのだろうが、神は僕を見放してはいないらしい。腕を極力下方向にずらし、布団にめり込ませるようにしながら、ゆっくりと引き抜きにかかる。パジャマ越しの暖かさだとか、布地を引き込む時に感じる肌との摩擦だとかについては一切考えないよう、努めて煩悩を殺しつつ、ゆっくりと。
やがて、腕全体が抜けそうな位置にまで到達した。大きな恐怖から解放された安堵と、少しの未練―――あまり深く考えるべきではなさそうだ―――を覚えつつ、さりとて最後まで気を抜くべきではないと自戒し、より注意深い動きで、手を引き抜いた。
やった、と思ったのも束の間。
途端、姉の体が大きく寝返りをうち、ここ数分での僕の努力は水泡に帰した。
……いや、単純に状況が巻き戻されるのなら、それはまだいい。やり直せばいいのだから。だが、今回は違う。寝返りと同時に伸ばされた腕は、僕の背中にしっかりと回されており―――当初危惧していた「最悪」の状況が、ここに成立していた。試しに少し身じろぎしてみても、拘束が解けるような感触は全くない。頭側か足側かに抜けられないかとも思ったが、悪いことに妙な手の回され方をしたらしく、服を脱ぐがごとく抜けることは難しいように思えた。作為を感じさせるほどに都合の悪い配置だった。完全に詰んでいる。
どうしたものか、必死に考える。考えて、考えて―――
「……どうせ詰んでるなら、少しでも幸福の貯蓄分を増やしておく方向で」
おやすみなさい、と呟いて二度寝に走る。清々しいまでの現実逃避に、我が事ながら、笑いが漏れた。もうどうにでもなれ、と自棄糞ぎみに心中呟いて、目を閉じる。
「―――ああ、そうだ。毒を食らわば、何とやら」
どうせ無事には済まないのだからと、両腕を姉の背中に回して……力を込めることは流石にできなかったけれど、そのまま、姉と抱き合うような姿勢を形作る。寝ている最中に抱きついたりするのだろうし、早いか遅いかの違いだけだ、と誰にともなく言い訳をする。
殴られて目覚めるのは嫌だなあ、などと思いながら、僕は再び微睡んだ。
「……いくじなしめ。眠気に任せて襲って来るくらいの積極性を期待してたんだけど、な」
薄目を開き、呟いて。
姉は少しだけ、弟を抱く腕に力を込めた。
目覚めを迎える直前の、この微睡みこそが醍醐味なのだ―――と、曖昧に拡散した意識の中で思う。半ば覚醒し、半ば眠りに就いたままの状態で、顕在しているとも潜在しているともつかない自我認識を弄ぶ、この時間こそが一日で最も尊い瞬間なのだと、僕は信じて疑わない。
だからこそ、目覚めに際して感じた片腕の痺れに、僕は強い違和を感じた。身体的な異状があれば、曖昧に覚醒した状態を保つことは難しくなる。均衡を保とうにも、すぐに目を覚ましてしまう。それを知っているから、僕はセルフ腕枕で腕を痺れさせるのを避けるため、両腕共に掛け布団の下へとしっかり収納してから眠りに就いているはずなのだった。寝起きの痺れなんてものを最後に感じたのはいつだったろう、と疑問に思えるほど、久しく経験していない現象だ。
―――などと、小難しく現状を分析している時点で、既にして覚醒は始まってしまったと見て間違いない。ここから気持ちのいい状態まで退行するのは至難の業だろう、と考える。僕は諦めて目を覚まし、現状を確認する覚悟を決めた。瞼を開き、痺れている左腕を見る。
そこには、僕の腕を背中で下敷きにしつつ、熟睡する姉がいた。
僅かに残っていた眠気は、その光景を認識した瞬間に吹き飛んだ。脳内に警報が響き渡る。本能はヤバいと喚き、理性は可及的速やかに状況を脱せよと急かしてくる。いずれにせよ、判断と行動が急務であると悟った。
まず僕が行ったのは、周囲の状況確認だった。目線だけを動かして確認を行う。現在地が確かに僕の部屋であることを認識して、軽く息をついた。間違いなく、ここは僕の部屋だ。もしも万が一、寝ぼけた僕が姉の布団に侵入してしまっていたのだとすれば、これはもう言い訳の利かない状況で、起きた姉に申し開きをする暇もなく殺されるしかないだろう。だが、姉の方が間違えて―――或いは何か意図があるのかもしれないが―――侵入してきたというのなら、これは僕の側に利がある。少なくとも、僕が一方的に悪いという話にはなるまい。我ながら弱気にも程がある分析だが、戦場で長く生き残れるのは臆病者だけなのだ。
さて、僕側の過失ではないと知れた訳だが、それでも状況はオールグリーンとは言いがたい。目覚めた姉が寝ぼけた状態でこの状況を認識したら、どうなるか。反射的に殴られるか、締められるか、極められるか―――少なくとも、僕が痛みを受けるであろうことは明白だ。理性の薄まった時の姉はひらすらに怖い。時間切れまで待つだけでは駄目だ、と認識せざるを得ない。つまり、ここが僕の部屋だろうが姉の部屋だろうが、どのみち退避する以外に道は無かったらしい、ということだ。
そう考えると、姉が起きる前に部屋を辞し、「何で姉さんが僕の部屋で寝てるのさ?」と困り顔で揶揄するくらいの線が適当なように思える。意識のはっきりした姉相手なら、理不尽な暴力を被ることはないはずだ。……たぶん、きっと。
方針が纏まったので、脱出を試みる。幸いと言っていいのかどうか、圧し潰されているのは片腕だけだ。もしも体全体で抱き着かれていれば詰みだったのだろうが、神は僕を見放してはいないらしい。腕を極力下方向にずらし、布団にめり込ませるようにしながら、ゆっくりと引き抜きにかかる。パジャマ越しの暖かさだとか、布地を引き込む時に感じる肌との摩擦だとかについては一切考えないよう、努めて煩悩を殺しつつ、ゆっくりと。
やがて、腕全体が抜けそうな位置にまで到達した。大きな恐怖から解放された安堵と、少しの未練―――あまり深く考えるべきではなさそうだ―――を覚えつつ、さりとて最後まで気を抜くべきではないと自戒し、より注意深い動きで、手を引き抜いた。
やった、と思ったのも束の間。
途端、姉の体が大きく寝返りをうち、ここ数分での僕の努力は水泡に帰した。
……いや、単純に状況が巻き戻されるのなら、それはまだいい。やり直せばいいのだから。だが、今回は違う。寝返りと同時に伸ばされた腕は、僕の背中にしっかりと回されており―――当初危惧していた「最悪」の状況が、ここに成立していた。試しに少し身じろぎしてみても、拘束が解けるような感触は全くない。頭側か足側かに抜けられないかとも思ったが、悪いことに妙な手の回され方をしたらしく、服を脱ぐがごとく抜けることは難しいように思えた。作為を感じさせるほどに都合の悪い配置だった。完全に詰んでいる。
どうしたものか、必死に考える。考えて、考えて―――
「……どうせ詰んでるなら、少しでも幸福の貯蓄分を増やしておく方向で」
おやすみなさい、と呟いて二度寝に走る。清々しいまでの現実逃避に、我が事ながら、笑いが漏れた。もうどうにでもなれ、と自棄糞ぎみに心中呟いて、目を閉じる。
「―――ああ、そうだ。毒を食らわば、何とやら」
どうせ無事には済まないのだからと、両腕を姉の背中に回して……力を込めることは流石にできなかったけれど、そのまま、姉と抱き合うような姿勢を形作る。寝ている最中に抱きついたりするのだろうし、早いか遅いかの違いだけだ、と誰にともなく言い訳をする。
殴られて目覚めるのは嫌だなあ、などと思いながら、僕は再び微睡んだ。
「……いくじなしめ。眠気に任せて襲って来るくらいの積極性を期待してたんだけど、な」
薄目を開き、呟いて。
姉は少しだけ、弟を抱く腕に力を込めた。
2011年12月31日土曜日
『真打ちは』
第5回SSコンペ(お題:『クリスマス』)
大晦日の夜。コンビニで年越しに備えた買い物を済ませた私は、その帰路、道の端に見慣れないものを見つけた。
“サンタは要りませんか”―――手書きでそう記されたダンボールの中に、虚ろな目をした老人が座っていたのだ。
上下揃った赤い服に、たくわえられた豊かな髭。なるほど、外見的特徴だけ見れば確かにサンタだ。サンタが道端に捨てられていた。非日常的な、そして時期を逸してもいる光景に、私は暫し硬直することを余儀なくされる。
そんな風に足を止めて見入ってしまったせいだろうか、気付けば老人は顔を上げ、私と視線を合わせていた。あ、まずい、と思った時にはもう遅い。
「サンタは要らんかね?」
老人は身を乗り出すと、皺だらけの顔に微笑みを浮かべ、そう言った。外見から受ける印象通りの、深みのある声だった。
早く家に帰って暖まりたい、という思いがまずあったし、そうでなくとも関わり合いになどなりたくなかったので、なるべくそっけなく聞こえるよう努めつつ、断りの旨を伝えることにした。
「いえ結構です。それでは」
そう言い残して歩き出そうとすると、老人は段ボールごと私の眼前に滑り込み、進路を塞いできた。身の危険を感じるほどの俊敏さに、これは不味いと直感し、遠回りして帰ろうと踵を返す。
すると、
「待ちたまえお嬢さん話だけでも!」
「んなぁっ!?」
踏み出そうとした足に重みが加わり、バランスを崩した私は前のめりに倒れこむことになった。びたん、と音の出そうな、綺麗な倒れざまを晒してしまう。
後ろを見やれば、老人が私の片足をがっしりと握りしめていた。腹ばいで縋りつく姿勢に、いつか見たゾンビ退治ゲームの思い出が重なる。
「そう、あれは今を遡ること6日、25日のことじゃった……。諸般の事情でプレゼントを配り損ねたうえ他のサンタに尻拭いをしてもらったワシは、クリスマスを完遂しないことには帰還してはならぬとのお達しを受けたのじゃよ」
そして喋り始める老人。
血走った目が私の不安感を効果的に煽ってくる。同時に、大事な部分を全て割愛した説明に愕然とする。
「であるからして、ワシは最低一人にプレゼントを齎さねばならない。それも良い子にな。じゃが、ここ6日間において、ついぞ一人も現れることはなかった―――そう、ワシを気にかけてくれるような良い子は、な。……君を除いて」
なるほど、顛末は全く見えないが、要求だけは理解できた。
それにしてもいい加減離せと言いたい気持ちはこれ以上無いほどに強まっていたが、早々に相手方の要望を叶えてやるのがおそらく最善手と思い、
「じゃあ、『怪しい老人からの解放』をください。帰りたいので」
win-winな提案をしてみた。これで話は終了するはずである。
しかし老人は表情を曇らせ、
「その願いは叶えられない。正確に言えば、それを本部に持って帰ったワシが許されそうにないから叶えたくない……」
沈痛な面持ちでそう漏らした。
「……警察呼ばれたいならそうしますけど?」
「サンタは割とイリーガルな存在じゃから、公権力の召喚はできれば遠慮してほしいんじゃが」
「じゃあ呼びませんから、さっさと離してください」
「うむ。きっとじゃぞ」
足を離された瞬間に走って逃げてやろうかとも思ったが、消沈した老人をこれ以上落ち込ませるのもなんだか気が咎める。
立ち上がった私を見やると、老人は恰幅の良い腹を揺らしてこう言った。
「さあ、欲しいものを言うがよい」
先程から帰りたい気持ちがとどまるところを知らなかったため、とにかく何でもいいから思いついたものを口にしていこうと考える。
「じゃあ、『お金』」
「残念、この6日で消費してしまった。素寒貧さ」
「だったらもう他のプレゼントも無理でしょうが!」
「じゃあ、もしこのサンタ服が欲しければ譲るにやぶさかではないが……代わりにワシが全裸になるけど」
「要らんわ!」
そのまま、なんとか納得させつつ早々に話を終わらせられないか、と思案していると、ごーん、ごーんと重く低い音が響き始めた。新年の合図だ。
こんな年越しを迎えると予想できていたはずもなく、猛烈な虚脱感に襲われる。
「まさか、今年最後の思い出が変な老人との問答だなんて……」
そんな私を見て、老人が何かを思いついたのだろう、満面の笑みを浮かべた。
「……えー、では、『年越しを一緒に過ごしてあげた』というのがプレゼントだった、ということでひとつ」
大晦日の夜。コンビニで年越しに備えた買い物を済ませた私は、その帰路、道の端に見慣れないものを見つけた。
“サンタは要りませんか”―――手書きでそう記されたダンボールの中に、虚ろな目をした老人が座っていたのだ。
上下揃った赤い服に、たくわえられた豊かな髭。なるほど、外見的特徴だけ見れば確かにサンタだ。サンタが道端に捨てられていた。非日常的な、そして時期を逸してもいる光景に、私は暫し硬直することを余儀なくされる。
そんな風に足を止めて見入ってしまったせいだろうか、気付けば老人は顔を上げ、私と視線を合わせていた。あ、まずい、と思った時にはもう遅い。
「サンタは要らんかね?」
老人は身を乗り出すと、皺だらけの顔に微笑みを浮かべ、そう言った。外見から受ける印象通りの、深みのある声だった。
早く家に帰って暖まりたい、という思いがまずあったし、そうでなくとも関わり合いになどなりたくなかったので、なるべくそっけなく聞こえるよう努めつつ、断りの旨を伝えることにした。
「いえ結構です。それでは」
そう言い残して歩き出そうとすると、老人は段ボールごと私の眼前に滑り込み、進路を塞いできた。身の危険を感じるほどの俊敏さに、これは不味いと直感し、遠回りして帰ろうと踵を返す。
すると、
「待ちたまえお嬢さん話だけでも!」
「んなぁっ!?」
踏み出そうとした足に重みが加わり、バランスを崩した私は前のめりに倒れこむことになった。びたん、と音の出そうな、綺麗な倒れざまを晒してしまう。
後ろを見やれば、老人が私の片足をがっしりと握りしめていた。腹ばいで縋りつく姿勢に、いつか見たゾンビ退治ゲームの思い出が重なる。
「そう、あれは今を遡ること6日、25日のことじゃった……。諸般の事情でプレゼントを配り損ねたうえ他のサンタに尻拭いをしてもらったワシは、クリスマスを完遂しないことには帰還してはならぬとのお達しを受けたのじゃよ」
そして喋り始める老人。
血走った目が私の不安感を効果的に煽ってくる。同時に、大事な部分を全て割愛した説明に愕然とする。
「であるからして、ワシは最低一人にプレゼントを齎さねばならない。それも良い子にな。じゃが、ここ6日間において、ついぞ一人も現れることはなかった―――そう、ワシを気にかけてくれるような良い子は、な。……君を除いて」
なるほど、顛末は全く見えないが、要求だけは理解できた。
それにしてもいい加減離せと言いたい気持ちはこれ以上無いほどに強まっていたが、早々に相手方の要望を叶えてやるのがおそらく最善手と思い、
「じゃあ、『怪しい老人からの解放』をください。帰りたいので」
win-winな提案をしてみた。これで話は終了するはずである。
しかし老人は表情を曇らせ、
「その願いは叶えられない。正確に言えば、それを本部に持って帰ったワシが許されそうにないから叶えたくない……」
沈痛な面持ちでそう漏らした。
「……警察呼ばれたいならそうしますけど?」
「サンタは割とイリーガルな存在じゃから、公権力の召喚はできれば遠慮してほしいんじゃが」
「じゃあ呼びませんから、さっさと離してください」
「うむ。きっとじゃぞ」
足を離された瞬間に走って逃げてやろうかとも思ったが、消沈した老人をこれ以上落ち込ませるのもなんだか気が咎める。
立ち上がった私を見やると、老人は恰幅の良い腹を揺らしてこう言った。
「さあ、欲しいものを言うがよい」
先程から帰りたい気持ちがとどまるところを知らなかったため、とにかく何でもいいから思いついたものを口にしていこうと考える。
「じゃあ、『お金』」
「残念、この6日で消費してしまった。素寒貧さ」
「だったらもう他のプレゼントも無理でしょうが!」
「じゃあ、もしこのサンタ服が欲しければ譲るにやぶさかではないが……代わりにワシが全裸になるけど」
「要らんわ!」
そのまま、なんとか納得させつつ早々に話を終わらせられないか、と思案していると、ごーん、ごーんと重く低い音が響き始めた。新年の合図だ。
こんな年越しを迎えると予想できていたはずもなく、猛烈な虚脱感に襲われる。
「まさか、今年最後の思い出が変な老人との問答だなんて……」
そんな私を見て、老人が何かを思いついたのだろう、満面の笑みを浮かべた。
「……えー、では、『年越しを一緒に過ごしてあげた』というのがプレゼントだった、ということでひとつ」
2011年12月14日水曜日
『お気に召さぬ理由』
第4回SSコンペ(お題:『イノセント』)
「この少女型アンドロイドはとある職人の遺作なのだが、貰われた先で拒絶され続けてしまい、困っている。引き取ってもらえないだろうか」
こんな依頼を持ち掛けられた時の私の顔は、きっと傍目には笑えるほどに呆けたものだったろう。
弁解させてもらえば、そもそもアンドロイドというのは、基本的には身の回りの世話を任せるために手に入れるものである。対話の相手や、その―――性処理の相手としての役割を課されることもあるのだろうけど、まあ、ともかく、基本的には。依頼主は昔からの知り合いで、私が人であれ機械であれ、新たなお手伝いを必要としない程度には自律した生活を遅れていると知っているはずだ。だから、この依頼は完全に私の虚を衝くものだった。少しくらい呆けたって、それは仕方がないというものだろう。
なのにどうして、と問うと、渡されたのは一枚の仕様書だった。製作者の欄には、私の幼馴染だった……恋人になることのできなかった男性の名が、あった。幼い頃はずっと一緒で、でも、どうしても先の段階に踏み込めなかった関係性の、その片割れ。その名を見て、ああ、なるほど、と納得する。
顛末はおそらくこうだ、『貰い手のつかないアンドロイド、遺作がゆえに処分するのも忍びない、ならば作者の縁故を頼るというのはどうか』。そりゃあ、私にお鉢が回ってくる訳だ。あいつと親しかった人間なんて、それこそ私くらいのものなんだから。―――思考の内容に誇らしげな色が混ざっていることに気付き、微かな羞恥を憶える。
確認を取ってみれば、正に私が予想した通りの流れだったようで、我ながら奴に関しては観察力が冴え渡るな、と感心する。まさか死後の出来事で実感することになろうとは、夢にも思っていなかったが。
一頻り納得した、その後。
どういう話を経たのかは、なぜだか上の空だったので覚えていないが、彼女を引き取ることになったらしい。今後ともよろしく、と少女に声を掛け、依頼人とは、長く続けられなそうであれば連絡を、との約束を交わした。これで、少女は私のものとなった。……言葉にしてみると、嫌な響きではある。
程なくして、依頼人が帰っていった。見送りを済ませ、自室に戻った、その途端。部屋に待たせておいた、これから私と共に過ごすことになるであろう彼女が、小さな歩幅を刻みながら、私に駆け寄ってきた。
なんだろう、と思う暇もなく。彼女はポケットからハンカチを取り出すと、背伸びをして、私の顔に押し当てた。
「じっとしていてください」
不器用な手つきで、私の顔を拭う。
―――ああ、泣いてるんだ、と気付いたのは、この瞬間だった。
自覚すると、そこには確かに、感情の奔流があった。それを、喪失の悲しみだとか、後悔の念だとか、そういう言葉で呼ぶことは可能なのだろう。でも、それは絶対に、嫌だった。
慰めも励ましもなく、無言で涙を拭ってくれる少女がただありがたくて―――ああ、確かにこの娘は奴が創ったんだろうな、と直感的に理解した。堪らず、少女の小さな頭を、胸に抱く。掻き抱く腕に力を込める。前が見えないだろうに、まだ涙を拭おうとする様子に、笑いが漏れた。依然、涙は止まらなかったけれど。
その日から、私と彼女との生活が始まった。
疲れ知らずの彼女の存在は、私の日々の負担を大幅に低減させてくれた。特に家事の方面においてそれは顕著で、家を出て、帰宅するまでの間に掃除が済んでいる、なんて状況が常態化するのに時間はかからなかった。家の間取りさえ覚えてしまえば、彼女に任せられない仕事は何もなかった。作者が優秀に創ったんだろうな、と考えると、少し感慨深いものがあった。あいつは私がいないとどうしようもないくらい、ズボラな奴だったから。
話し相手としても、彼女は優秀だった。賢く、善良で、優しい。少し幼く、間の抜けたところがあるのは、身体的印象に合わせたものだろうか。作者がそう創ったんだろうな、と考えると、少し嫌な汗が出た。理由はあまり考えない方がよさそうだ、と直感する。
そんな訳で、私にはどうにも瑕疵が見出せないだけに、彼女がなぜ貰われ先で上手くいかなかったのか、という疑問が残った。誰かの気分を害したり、期待はずれだと失望されたりするようなことは、まず有り得まい。ならばどうして、と訝しむ思いが、私の中に住み着いていた。
その後、数ヶ月の期間を経たある日。問いへの答えは、唐突にもたらされた。
夢を視た。あいつと私が夫婦で、少女が娘となった、優しい微睡み。そんな、今となっては成立し得ない夢想の中に、私は一つの啓示を得た。飛び起きた私は、彼女の話を持ちかけてきた依頼主に連絡をとった。
そして、私なりの結論を。
「彼女の欠陥は、全く瑕疵を持たない、という点にあるのだと思います。私の見た限りにおいて、ですが」
「瑕疵を持たない……? それが所有者をして彼女を拒絶せしめた原因であると?」
「ええ。……巷のアンドロイドはもっと機械的で、融通の利かない、非人間的なところがあるでしょう? それに比べて、彼女の感情は人間のソレと遜色がない。人間を不快にさせない、という一点に於いて、完璧であるとすら言えます」
「ええ、僕も初めて見た時には天才の所業だと思ったものです。あれほどまでに人間じみたアンドロイドは他に見たことがない。しかし、それが欠陥である、と。……率直に言って、どういう意味なのか判じかねますが」
「完璧すぎるんです。どこまでも優しく、呆れるほど善良で、淀みなく有能。市販のアンドロイドが非人間的ではあれ、能力については枷を嵌められていないことを思い出してください。もし、彼らの感情面での欠陥が、意図してそう造られた結果であるのだとしたら、どうでしょうか」
「ふむ、つまり……?」
「人間よりも実務能力に優れ、しかし情緒面では劣る、『ロボットらしい』存在。そうじゃないと、見ていて安心することができない。何もかもが完璧な存在は、そこに居るだけで所有者の欠点を―――殊に、その善良さ、従順さに対しては、汚れを―――映してしまう。鏡になってしまうんです」
「―――なるほど。つまり、彼女は人間以上であったから、人間にとっては正視に耐え難い存在となり得たのだ、と。真偽は判りませんが、あり得る話のようには聞こえます。その答えに至ったということは、貴女も?」
「いいえ。……もちろん、私が完璧だから平気だった、なんて話ではありませんけどね。ただ、そういう存在と一緒に過ごすのは、初めてではなかったもので」
「……もしかして、その相手というのは」
「ええ。彼女の製作者は―――あいつは、他人の負の感情がわからない人間で。善性に裏打ちされた良心だけで生きてるような奴でしたよ。……きっと、思いもよらなかったんでしょう。人の傍にいる者が、その善性がゆえに人を居たたまれなくしてしまう、だなんて」
我慢できずに逃げ出すのは、いつも私の方だった。どこまでも透明なあいつの傍に立っていると、自分がひどく汚れている気がして。
ならば、今こうして彼女と過ごせているというのは、私が変質した証なのだろう。それを成長と呼ぶべきか否かはわからない。ただ言えるのは、あいつと過ごせるようになったかもしれない私の傍に、あいつが立つことは、二度とないということだけだ。
顔にハンカチが押し当てられる。出会いと同じ構図だ。心配そうに私を伺う、あいつの映し身。あいつが眺めた世界は、こんなに優しくて、透明なのだと。
そんなことを考えて、私は泣いた。
「この少女型アンドロイドはとある職人の遺作なのだが、貰われた先で拒絶され続けてしまい、困っている。引き取ってもらえないだろうか」
こんな依頼を持ち掛けられた時の私の顔は、きっと傍目には笑えるほどに呆けたものだったろう。
弁解させてもらえば、そもそもアンドロイドというのは、基本的には身の回りの世話を任せるために手に入れるものである。対話の相手や、その―――性処理の相手としての役割を課されることもあるのだろうけど、まあ、ともかく、基本的には。依頼主は昔からの知り合いで、私が人であれ機械であれ、新たなお手伝いを必要としない程度には自律した生活を遅れていると知っているはずだ。だから、この依頼は完全に私の虚を衝くものだった。少しくらい呆けたって、それは仕方がないというものだろう。
なのにどうして、と問うと、渡されたのは一枚の仕様書だった。製作者の欄には、私の幼馴染だった……恋人になることのできなかった男性の名が、あった。幼い頃はずっと一緒で、でも、どうしても先の段階に踏み込めなかった関係性の、その片割れ。その名を見て、ああ、なるほど、と納得する。
顛末はおそらくこうだ、『貰い手のつかないアンドロイド、遺作がゆえに処分するのも忍びない、ならば作者の縁故を頼るというのはどうか』。そりゃあ、私にお鉢が回ってくる訳だ。あいつと親しかった人間なんて、それこそ私くらいのものなんだから。―――思考の内容に誇らしげな色が混ざっていることに気付き、微かな羞恥を憶える。
確認を取ってみれば、正に私が予想した通りの流れだったようで、我ながら奴に関しては観察力が冴え渡るな、と感心する。まさか死後の出来事で実感することになろうとは、夢にも思っていなかったが。
一頻り納得した、その後。
どういう話を経たのかは、なぜだか上の空だったので覚えていないが、彼女を引き取ることになったらしい。今後ともよろしく、と少女に声を掛け、依頼人とは、長く続けられなそうであれば連絡を、との約束を交わした。これで、少女は私のものとなった。……言葉にしてみると、嫌な響きではある。
程なくして、依頼人が帰っていった。見送りを済ませ、自室に戻った、その途端。部屋に待たせておいた、これから私と共に過ごすことになるであろう彼女が、小さな歩幅を刻みながら、私に駆け寄ってきた。
なんだろう、と思う暇もなく。彼女はポケットからハンカチを取り出すと、背伸びをして、私の顔に押し当てた。
「じっとしていてください」
不器用な手つきで、私の顔を拭う。
―――ああ、泣いてるんだ、と気付いたのは、この瞬間だった。
自覚すると、そこには確かに、感情の奔流があった。それを、喪失の悲しみだとか、後悔の念だとか、そういう言葉で呼ぶことは可能なのだろう。でも、それは絶対に、嫌だった。
慰めも励ましもなく、無言で涙を拭ってくれる少女がただありがたくて―――ああ、確かにこの娘は奴が創ったんだろうな、と直感的に理解した。堪らず、少女の小さな頭を、胸に抱く。掻き抱く腕に力を込める。前が見えないだろうに、まだ涙を拭おうとする様子に、笑いが漏れた。依然、涙は止まらなかったけれど。
その日から、私と彼女との生活が始まった。
疲れ知らずの彼女の存在は、私の日々の負担を大幅に低減させてくれた。特に家事の方面においてそれは顕著で、家を出て、帰宅するまでの間に掃除が済んでいる、なんて状況が常態化するのに時間はかからなかった。家の間取りさえ覚えてしまえば、彼女に任せられない仕事は何もなかった。作者が優秀に創ったんだろうな、と考えると、少し感慨深いものがあった。あいつは私がいないとどうしようもないくらい、ズボラな奴だったから。
話し相手としても、彼女は優秀だった。賢く、善良で、優しい。少し幼く、間の抜けたところがあるのは、身体的印象に合わせたものだろうか。作者がそう創ったんだろうな、と考えると、少し嫌な汗が出た。理由はあまり考えない方がよさそうだ、と直感する。
そんな訳で、私にはどうにも瑕疵が見出せないだけに、彼女がなぜ貰われ先で上手くいかなかったのか、という疑問が残った。誰かの気分を害したり、期待はずれだと失望されたりするようなことは、まず有り得まい。ならばどうして、と訝しむ思いが、私の中に住み着いていた。
その後、数ヶ月の期間を経たある日。問いへの答えは、唐突にもたらされた。
夢を視た。あいつと私が夫婦で、少女が娘となった、優しい微睡み。そんな、今となっては成立し得ない夢想の中に、私は一つの啓示を得た。飛び起きた私は、彼女の話を持ちかけてきた依頼主に連絡をとった。
そして、私なりの結論を。
「彼女の欠陥は、全く瑕疵を持たない、という点にあるのだと思います。私の見た限りにおいて、ですが」
「瑕疵を持たない……? それが所有者をして彼女を拒絶せしめた原因であると?」
「ええ。……巷のアンドロイドはもっと機械的で、融通の利かない、非人間的なところがあるでしょう? それに比べて、彼女の感情は人間のソレと遜色がない。人間を不快にさせない、という一点に於いて、完璧であるとすら言えます」
「ええ、僕も初めて見た時には天才の所業だと思ったものです。あれほどまでに人間じみたアンドロイドは他に見たことがない。しかし、それが欠陥である、と。……率直に言って、どういう意味なのか判じかねますが」
「完璧すぎるんです。どこまでも優しく、呆れるほど善良で、淀みなく有能。市販のアンドロイドが非人間的ではあれ、能力については枷を嵌められていないことを思い出してください。もし、彼らの感情面での欠陥が、意図してそう造られた結果であるのだとしたら、どうでしょうか」
「ふむ、つまり……?」
「人間よりも実務能力に優れ、しかし情緒面では劣る、『ロボットらしい』存在。そうじゃないと、見ていて安心することができない。何もかもが完璧な存在は、そこに居るだけで所有者の欠点を―――殊に、その善良さ、従順さに対しては、汚れを―――映してしまう。鏡になってしまうんです」
「―――なるほど。つまり、彼女は人間以上であったから、人間にとっては正視に耐え難い存在となり得たのだ、と。真偽は判りませんが、あり得る話のようには聞こえます。その答えに至ったということは、貴女も?」
「いいえ。……もちろん、私が完璧だから平気だった、なんて話ではありませんけどね。ただ、そういう存在と一緒に過ごすのは、初めてではなかったもので」
「……もしかして、その相手というのは」
「ええ。彼女の製作者は―――あいつは、他人の負の感情がわからない人間で。善性に裏打ちされた良心だけで生きてるような奴でしたよ。……きっと、思いもよらなかったんでしょう。人の傍にいる者が、その善性がゆえに人を居たたまれなくしてしまう、だなんて」
我慢できずに逃げ出すのは、いつも私の方だった。どこまでも透明なあいつの傍に立っていると、自分がひどく汚れている気がして。
ならば、今こうして彼女と過ごせているというのは、私が変質した証なのだろう。それを成長と呼ぶべきか否かはわからない。ただ言えるのは、あいつと過ごせるようになったかもしれない私の傍に、あいつが立つことは、二度とないということだけだ。
顔にハンカチが押し当てられる。出会いと同じ構図だ。心配そうに私を伺う、あいつの映し身。あいつが眺めた世界は、こんなに優しくて、透明なのだと。
そんなことを考えて、私は泣いた。
2011年12月1日木曜日
外に視る檻
第3回SSコンペ(お題:『別れ』)
気づいたのは物心がついた頃だったろうか。わたしには、他のひとには見えないものが見えている。それは絵本に出てくる小人のような姿をしていて、言葉を話すことはないけれど、わたしが話し掛けると頷いたり、微笑んだりといった反応を返してくれる存在だった。自我のめばえよりも早く、ともにある他者。ごく自然に、彼はわたしの話し相手になった。
傍からは見えない存在と言葉を交わしているように見えたからか、幼い頃にはずいぶん気味悪がられていた。友達の集団から軽く疎外されていたような覚えもある。成長してからは過去の奇行も夢見がちな少女の戯れと見なして貰えるようになったのだけれど、にも関わらず、高校生となった今でもわたしは人付き合いの多い方ではない。「彼」に向かって言葉を投げかける、一方通行の対話に慣らされてしまったのか。双方向の対話というものに億劫さを感じていたわたしは、当然の帰結として、対話を不得手とするに至った。そんな息苦しさから逃げるために、ずっと独りでいた。
転機が訪れたのは、ふと思い立って学校の図書室に訪れた時のことだった。
本を借りる際に応対してくれた、図書委員の男子生徒の微笑みがなんとなく忘れられない。そう思ったのが始まりだ。
その日以来、何かにつけて図書室へ行くようになった。気付けば、彼の姿を視線で追っている自分がいた。本に没入していたはずが、ふとした瞬間に紙面から意識が逸れて、図書委員のいるカウンターのあたりをさまよっていることが頻繁にあった。
そんな、まさか、と思う気持ちはあった。一方で、こういうこともあるだろう、と納得する自分もいた。他者に慣れていない自分のことだ、少しのきっかけがあれば簡単になびくのも無理からぬこと―――と自虐してみても、胸に生まれた衝動を消すことは叶わなかった。
認めよう、わたしは恋をしたのだ。親兄弟とすらうまく会話できない、相手の善意と社交性に阿ることなしには友人関係を築くことすら叶わないわたしが、生まれて初めて、一足飛びに恋をした。
―――したのだが、まあ、だからどうということもなく。
何かする行動力も、力を借りる知り合いも持ち合わせていないわたしは、毎日のように「彼」に相談を―――相談という名の言い訳の羅列を聞かせ、返ってくる微笑みや首肯に何となく煮え切らないものを感じつつ、特に何もしないまま時間を空費するのだった。
そんなふうに胸の裡の想いを弄んでいた、ある日。
その日の当番は例の彼で、どうも貸し出しの仕事が連続しているらしかった。バックヤードに引っ込んでいないのは好都合だ。カウンターに釘付けになっていた彼を眺めながら、いつもこうだったらいいのに、などと益体もないことを考えていると、すっ、とわたしの視界が翳った。誰かが傍に来たのだ、と気付く。
「あの、兄さんに何か?」
少し低めの、優しげな声。降ってきた軌跡を辿るように視線を上げると、背の高い女子生徒がわたしを見下ろしていた。内心の驚きを極力抑えつつ、言葉を紡ぐ。
「あ、いや、別にその……あの、兄さんというのは一体?」
当然のように、驚きなど抑えきれているはずもなかった。いや、驚いていなければどもらず言えた、と主張するのもいささか自信過剰な物言いだろうか。これがわたしだ、と主張せんばかりの惨憺たる応答。顔から火が出そうだった。消えてしまいたい。
内心で自虐の限りを尽くすわたしに対して、件の女子は少しも嫌そうな顔を見せることなく、
「いつもご覧になってるあの男の人、私の兄さんなんです。その、ここのところずっと見てらしたように思いまして」
とんでもない爆弾を投下してくれた。邪気なく放たれた言葉がいよいよわたしの心を抉ってくる。頬が熱くなるのを感じた。思考が定まらない。
「あ―――いえ、勘違いだったらごめんなさい。責めようとか馬鹿にしようとかいうんじゃないんです。ただ、私以外に兄さんのことを見てる人がいるんだ、って思うと嬉しくてつい」
固まってしまったわたしを見てか、少々あわてたような素振りを見せつつ早口に彼女は続けた。わたしはといえば、言われた内容を満足に飲み込むこともできず、ただひたすらに黙りこくるしかない。そんなわたしに対して些かの侮蔑すらも見せず、彼女は嬉しげに、こんな提案をした。
「あの、図書室で喋るのもなんですし、宜しければ放課後にでもお喋りしませんか?」
ひとつ、頷いた。更に投げかけられたいくつかの質問にも、同様に首肯を繰り返した。あまりに想像の埒外な展開であったため詳しくは覚えていないが、多少の問答の末、わたしは彼女と一緒に下校する流れとなったらしい。そこから昼休みが終わって、放課後に至るまでの時間もまた、記憶から抜けている。あまりの出来事に、脳の処理が追いつかなかったのだろうか。ふわふわした心地のまま、気づけば放課後になっていた。
帰路、わたしたちはいろいろなことを話した。わたしにとっては、こんなに喋るのは生まれて初めてだ、と比喩でもなんでもなく言えてしまうくらいの会話量だった。
内容を要約すると、こうだ。彼女は彼のことを自慢の兄だと思っているが、周囲の人は誰も彼の魅力を理解してくれないのだという。そのことで鬱屈としたものを溜め込んでいるところに、彼を注視する女子を発見して、思わず声を掛けてしまった―――というのが、ことの顛末。その行動論理を見れば解る通り、思った以上に豪快な人であるらしく、わたしが彼に恋していると知るや否や、当初抱いていた遠慮がちな彼女の印象もどこかへ吹き飛んでしまった。
結果、会話の内容も、
「―――だから私、嬉しくって。あの、兄さんのどこを良いと思ったのか、宜しければ聞かせてもらえません?」
「ぇっと……正直なところ、自分でもよくわからないんですが。ただ、他の人への振る舞いが優しかったから、かなあ……とか……まあ」
「振る舞いの優しさ……ええ、正にそうです。そこにお気づきになられるとは、お目が高い! そも、兄さんの長所というのは―――」
―――といったふうに、惚気とも身内自慢ともつかないものばかりだった。初印象を裏切られたような気もしていたが、決して不快ではなく。むしろ、しどろもどろになりがちなわたしを上手に導いてくれる彼女と喋るのは、わたしにとってはおそらく初めての、息苦しくない他者性との対話だったように思う。少々の疲れは感じたものの、わたしは極めて快く、他人と会話することができた。
その日以来、わたしたちはたびたび帰路を同じくした。彼の攻略、というのを目標に掲げたサポート体制の始まりだ。作戦会議と称しては喫茶店に入り浸り、装備の調達と称しては服を買いに街へ繰り出す。人と喋ることは苦手なままだったけれど、友人と共に過ごす日々は悪くなかった。
ただ、ひとつだけ不安なこともあった。いつも視界の隅にいた「彼」、その姿をしばしば見失うようになっていたのだ。最初は気のせいかと思っていたが、数週間、数ヶ月と時が経つにつれ、その頻度は増えていった。悲しみはあったが、それは自分でも驚くほどに弱いものだった。長年傍にいてくれた存在、その喪失の予感を得てもなお平静でいられたのは、新たに得た友人の存在がゆえにだろうか。そんなにも、わたしは薄情なものだったのか。そう思うと、自分の小ささに嫌になった。
更に数カ月が経ち、何度目かの作戦会議を経て帰宅した、ある日。もうその頃には「彼」が見えない時間の方が圧倒的に長くなっていたのだが、この日は昔のように鮮明に、彼の姿を捉えることができた。
その様子を見て、ああ、消えるんだな、と直感した。
気の利いたことを言える自信はなかったが、最後くらいは、と思った。或いは、蔑ろにしてきたことへの後ろめたさに突き動かされたのか。判然としないまま、言葉が漏れた。
「ずっと話し相手になってくれて、ありがとう。どのくらい役に立ったのかは判らないけど……今のわたしは幸せだよ」
微笑みだけが返ってくる、ともすれば空虚な受け答え。だとしても、わたしは続ける。いつだって、そこに意味を見出してきたんだから。最後だって、かくありたい。
「実際、君がいてくれなきゃ一人でうまく過ごせてたのかも怪しいものだし。ここまで来れたのは君のおかげ」
返答はない。いつだってそうだった。いつだって「彼」は、黙って話を聞いてくれていた。全て解っている、と言いたげな微笑みと共に。
……そう思った瞬間、わたしの中に蟠っていたものたちが、符号した。
「ああ―――なんだ、そういうことか」
他者性との触れ合いを避けてきたわたし。「彼」が決してわたしの言葉を否定しなかったこと。にも関わらず、わたしが「彼」の反応に不満足な思いを抱いた記憶。
望む反応も、望まぬ反応も、本当に、心の底では望んでいた反応も―――的確に返していた、物言わぬ聞き手。
「鏡、だったんだ」
くるりと輪を描いた、自我の壁。こじ開けて、外界を視た。
その美しさに魅了されて―――もっと、もっとと広げた挙句、鏡は割れた。必要な犠牲だった、とは言える。通過儀礼だった、とは言える。そもそもがただの鏡映、他者性を宿さないそれとの別れに何を、とも言えるだろうけれど。
「―――今までありがとう。さよなら」
今しばらくは、この喪失を感じていたい、と思った。
しっかり悲しんで、立ち直ったら、綺麗な世界を楽しむのだ。「彼」と同じ、この両眼で。
気づいたのは物心がついた頃だったろうか。わたしには、他のひとには見えないものが見えている。それは絵本に出てくる小人のような姿をしていて、言葉を話すことはないけれど、わたしが話し掛けると頷いたり、微笑んだりといった反応を返してくれる存在だった。自我のめばえよりも早く、ともにある他者。ごく自然に、彼はわたしの話し相手になった。
傍からは見えない存在と言葉を交わしているように見えたからか、幼い頃にはずいぶん気味悪がられていた。友達の集団から軽く疎外されていたような覚えもある。成長してからは過去の奇行も夢見がちな少女の戯れと見なして貰えるようになったのだけれど、にも関わらず、高校生となった今でもわたしは人付き合いの多い方ではない。「彼」に向かって言葉を投げかける、一方通行の対話に慣らされてしまったのか。双方向の対話というものに億劫さを感じていたわたしは、当然の帰結として、対話を不得手とするに至った。そんな息苦しさから逃げるために、ずっと独りでいた。
転機が訪れたのは、ふと思い立って学校の図書室に訪れた時のことだった。
本を借りる際に応対してくれた、図書委員の男子生徒の微笑みがなんとなく忘れられない。そう思ったのが始まりだ。
その日以来、何かにつけて図書室へ行くようになった。気付けば、彼の姿を視線で追っている自分がいた。本に没入していたはずが、ふとした瞬間に紙面から意識が逸れて、図書委員のいるカウンターのあたりをさまよっていることが頻繁にあった。
そんな、まさか、と思う気持ちはあった。一方で、こういうこともあるだろう、と納得する自分もいた。他者に慣れていない自分のことだ、少しのきっかけがあれば簡単になびくのも無理からぬこと―――と自虐してみても、胸に生まれた衝動を消すことは叶わなかった。
認めよう、わたしは恋をしたのだ。親兄弟とすらうまく会話できない、相手の善意と社交性に阿ることなしには友人関係を築くことすら叶わないわたしが、生まれて初めて、一足飛びに恋をした。
―――したのだが、まあ、だからどうということもなく。
何かする行動力も、力を借りる知り合いも持ち合わせていないわたしは、毎日のように「彼」に相談を―――相談という名の言い訳の羅列を聞かせ、返ってくる微笑みや首肯に何となく煮え切らないものを感じつつ、特に何もしないまま時間を空費するのだった。
そんなふうに胸の裡の想いを弄んでいた、ある日。
その日の当番は例の彼で、どうも貸し出しの仕事が連続しているらしかった。バックヤードに引っ込んでいないのは好都合だ。カウンターに釘付けになっていた彼を眺めながら、いつもこうだったらいいのに、などと益体もないことを考えていると、すっ、とわたしの視界が翳った。誰かが傍に来たのだ、と気付く。
「あの、兄さんに何か?」
少し低めの、優しげな声。降ってきた軌跡を辿るように視線を上げると、背の高い女子生徒がわたしを見下ろしていた。内心の驚きを極力抑えつつ、言葉を紡ぐ。
「あ、いや、別にその……あの、兄さんというのは一体?」
当然のように、驚きなど抑えきれているはずもなかった。いや、驚いていなければどもらず言えた、と主張するのもいささか自信過剰な物言いだろうか。これがわたしだ、と主張せんばかりの惨憺たる応答。顔から火が出そうだった。消えてしまいたい。
内心で自虐の限りを尽くすわたしに対して、件の女子は少しも嫌そうな顔を見せることなく、
「いつもご覧になってるあの男の人、私の兄さんなんです。その、ここのところずっと見てらしたように思いまして」
とんでもない爆弾を投下してくれた。邪気なく放たれた言葉がいよいよわたしの心を抉ってくる。頬が熱くなるのを感じた。思考が定まらない。
「あ―――いえ、勘違いだったらごめんなさい。責めようとか馬鹿にしようとかいうんじゃないんです。ただ、私以外に兄さんのことを見てる人がいるんだ、って思うと嬉しくてつい」
固まってしまったわたしを見てか、少々あわてたような素振りを見せつつ早口に彼女は続けた。わたしはといえば、言われた内容を満足に飲み込むこともできず、ただひたすらに黙りこくるしかない。そんなわたしに対して些かの侮蔑すらも見せず、彼女は嬉しげに、こんな提案をした。
「あの、図書室で喋るのもなんですし、宜しければ放課後にでもお喋りしませんか?」
ひとつ、頷いた。更に投げかけられたいくつかの質問にも、同様に首肯を繰り返した。あまりに想像の埒外な展開であったため詳しくは覚えていないが、多少の問答の末、わたしは彼女と一緒に下校する流れとなったらしい。そこから昼休みが終わって、放課後に至るまでの時間もまた、記憶から抜けている。あまりの出来事に、脳の処理が追いつかなかったのだろうか。ふわふわした心地のまま、気づけば放課後になっていた。
帰路、わたしたちはいろいろなことを話した。わたしにとっては、こんなに喋るのは生まれて初めてだ、と比喩でもなんでもなく言えてしまうくらいの会話量だった。
内容を要約すると、こうだ。彼女は彼のことを自慢の兄だと思っているが、周囲の人は誰も彼の魅力を理解してくれないのだという。そのことで鬱屈としたものを溜め込んでいるところに、彼を注視する女子を発見して、思わず声を掛けてしまった―――というのが、ことの顛末。その行動論理を見れば解る通り、思った以上に豪快な人であるらしく、わたしが彼に恋していると知るや否や、当初抱いていた遠慮がちな彼女の印象もどこかへ吹き飛んでしまった。
結果、会話の内容も、
「―――だから私、嬉しくって。あの、兄さんのどこを良いと思ったのか、宜しければ聞かせてもらえません?」
「ぇっと……正直なところ、自分でもよくわからないんですが。ただ、他の人への振る舞いが優しかったから、かなあ……とか……まあ」
「振る舞いの優しさ……ええ、正にそうです。そこにお気づきになられるとは、お目が高い! そも、兄さんの長所というのは―――」
―――といったふうに、惚気とも身内自慢ともつかないものばかりだった。初印象を裏切られたような気もしていたが、決して不快ではなく。むしろ、しどろもどろになりがちなわたしを上手に導いてくれる彼女と喋るのは、わたしにとってはおそらく初めての、息苦しくない他者性との対話だったように思う。少々の疲れは感じたものの、わたしは極めて快く、他人と会話することができた。
その日以来、わたしたちはたびたび帰路を同じくした。彼の攻略、というのを目標に掲げたサポート体制の始まりだ。作戦会議と称しては喫茶店に入り浸り、装備の調達と称しては服を買いに街へ繰り出す。人と喋ることは苦手なままだったけれど、友人と共に過ごす日々は悪くなかった。
ただ、ひとつだけ不安なこともあった。いつも視界の隅にいた「彼」、その姿をしばしば見失うようになっていたのだ。最初は気のせいかと思っていたが、数週間、数ヶ月と時が経つにつれ、その頻度は増えていった。悲しみはあったが、それは自分でも驚くほどに弱いものだった。長年傍にいてくれた存在、その喪失の予感を得てもなお平静でいられたのは、新たに得た友人の存在がゆえにだろうか。そんなにも、わたしは薄情なものだったのか。そう思うと、自分の小ささに嫌になった。
更に数カ月が経ち、何度目かの作戦会議を経て帰宅した、ある日。もうその頃には「彼」が見えない時間の方が圧倒的に長くなっていたのだが、この日は昔のように鮮明に、彼の姿を捉えることができた。
その様子を見て、ああ、消えるんだな、と直感した。
気の利いたことを言える自信はなかったが、最後くらいは、と思った。或いは、蔑ろにしてきたことへの後ろめたさに突き動かされたのか。判然としないまま、言葉が漏れた。
「ずっと話し相手になってくれて、ありがとう。どのくらい役に立ったのかは判らないけど……今のわたしは幸せだよ」
微笑みだけが返ってくる、ともすれば空虚な受け答え。だとしても、わたしは続ける。いつだって、そこに意味を見出してきたんだから。最後だって、かくありたい。
「実際、君がいてくれなきゃ一人でうまく過ごせてたのかも怪しいものだし。ここまで来れたのは君のおかげ」
返答はない。いつだってそうだった。いつだって「彼」は、黙って話を聞いてくれていた。全て解っている、と言いたげな微笑みと共に。
……そう思った瞬間、わたしの中に蟠っていたものたちが、符号した。
「ああ―――なんだ、そういうことか」
他者性との触れ合いを避けてきたわたし。「彼」が決してわたしの言葉を否定しなかったこと。にも関わらず、わたしが「彼」の反応に不満足な思いを抱いた記憶。
望む反応も、望まぬ反応も、本当に、心の底では望んでいた反応も―――的確に返していた、物言わぬ聞き手。
「鏡、だったんだ」
くるりと輪を描いた、自我の壁。こじ開けて、外界を視た。
その美しさに魅了されて―――もっと、もっとと広げた挙句、鏡は割れた。必要な犠牲だった、とは言える。通過儀礼だった、とは言える。そもそもがただの鏡映、他者性を宿さないそれとの別れに何を、とも言えるだろうけれど。
「―――今までありがとう。さよなら」
今しばらくは、この喪失を感じていたい、と思った。
しっかり悲しんで、立ち直ったら、綺麗な世界を楽しむのだ。「彼」と同じ、この両眼で。
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