第十回SSコンペ(お題:『(書き手の)信仰』)
雲に翳る荒野、人のまばらな大地に、一人の少女が立っていた。
少女は何をするでもなく、目を瞑り、佇んでいる。その姿を認めて、周囲に居た人々が集まり出す。彼らはその表情に期待の色を浮かべ、誰が仕切るともなしに、少女を中心に円座を組み始めた。人だかりは意思を持つがごとく拡散し、各々が少女と直接対峙できるような、少女を中心とした大きな輪が形成されていく。
やがて、声無き期待が膨れ上がり、うねりとなって場を覆った。昂ぶりが最高潮に達する頃、集う者たちの求めに応じて、少女は物語を唄い始める。それは、僅かな差異を織り込みながら繰り返される恋の唄だった。五指で足りる程度の変奏しか持たない物語。聴衆は胸をふるわせて聴き入る。没入と追体験とに支配された、それは茫洋とした夢のような一時だった。
―――唄が終る。静寂が空間を満たす。終わりを迎えた後、少女は決して続きを唄わない。同じ唄を繰り返しても、物語の終幕、その先は決して誰も耳にすることがない。終幕の存在を解する聴衆たちは、だから語らう。残滓を味わうように、各々が夢を想起しながら、口々に。解釈、感想、批評。交わされる言葉に、確かな愛着が息づいていた。
静かな熱狂に包まれて、夜は過ぎていく。
穏やかな狂騒、熱を持った停滞。繰り返される物語と、それを中心として為される交感。幾夜を満たしてきたそれらはしかし、永遠のものではなかった。
―――続けられるという事実と、続けたいという想いとの間には、無間の空隙が広がっている。確かな実体を持たぬ物語を投影し、像を成すためのパースペクティブ、世界の枠組み。それは人の数と同じだけ存在し、しかも刻一刻と変化を遂げる性質のもので、だから彼らには、初めから永遠が与えられていた。だけれど、砂を食むように褪せた物語を咀嚼し続けることの空虚さに、或いはもっと単純に、新たな少女物語の出現に……彼らの心は乖離を志向した。
唄う少女が、唄える少女が一人であれば、それは世界の全てで在れたのかもしれない。実際には、彼女たちは日を追う毎に増えていき、世界には刻々と唄が増えていた。語られる世界は偏りをもって分割され、その配分もまた時と共に移ろう。盛衰はその周期を狭め、加熱と冷却はもはや同時にすら見えた。
一瞬で過去に追いやられた唄の周りには、僅かな者だけが残された。
顧みられることのない唄。狂熱の残り火すらも絶えた、その後に残された者たちは、やがて歌い始めた。かつて聴いた物語の続き、変奏、補完。捨象を経て純化へと至る、畸形じみた産物すらもそこには在った。或いは郷愁、或いは哀悼。個々の感慨を乗せた歌は狂熱の残滓を掬い取り、人の輪はやがて、再びその半径を増してゆく。唄う少女を中心として始まった輪は、やがてその外縁に新たな輪を形成するに至った。フラクタルは重層し、やがて最外縁は彼方へと遠ざかってゆく。継嗣は変質し、唄は歌を生む。ゆるやかに広がる熱は、外から来た輪の外縁と接し、融けていく。
バリエーションが世界を満たし、遂に人々は―――唄を忘れた。
それでもなお、少女は原初の唄を唄い続ける。
聴衆の減じた小さな輪に、しかし少女は何らの感慨を見せることもない。たとえ聴く者が絶えようとも、なお。そしてまた、聴衆の莫大な増加にも同様に。栄枯の過程に少女が何を想ったかなど、余人に解ることではなく。そも、彼女は何かを想っていたのか、すら。
だから、とも言えるし、それでも、とも言える。うたわれたものの変奏が、いつだって世界を作ってきた。
―――だからこそ、この物語の結末は、そのようにある。
2012年3月5日月曜日
『なんでもなく』
第九回SSコンペ(お題:『卒業』)
「卒業、おめでとうございます」
教室で名残を惜しむ会話を交わし、最後にと部室へ私物を回収しに向かった少年を出迎えたのは、後輩からの祝辞だった。今日は卒業式で、部室には誰もいないはずだ。だというのに、少女はいつも通りの位置に座り、少年の訪れを待っていた。扉を開けたその体勢のままで、少年は暫し硬直する。数秒の間を置いて、少年は口を開いた。
「……え? いま、何と?」
予期した反応からずれた物言いだったのか、少女の表情が呆れを帯びる。全く、と腰に手を当て、軽く首を振る。
「何って……こっちの台詞ですよそれ。何が何ですかって話です」
「ああ、いや―――お前の口から祝福の言葉が出てきた、という事実に脳が拒否反応をな。すまん」
真顔を作って、少年は言う。だが、口の端が僅かに吊り上がっていることに、少女は気付いた。ため息をひとつ、これだから、と呟きを漏らしつつ、しかし、少女の口の端もまた、同様に吊り上がる。
「どんだけ失礼ですか。……全く、最後くらいは真面目に送りだしてあげようという後輩心、たったいま残らず消滅しましたよ。ここから先は通常営業です」
機嫌の悪い風を装い、そう告げる。対して少年はにやりと笑い、
「悪いな。最後まで俺とお前はこんな感じだ」
「ええ、そのようですね。不本意ながら」
少女もまた、応えるように笑みを浮かべた。皮肉げな笑みが対称の像を結ぶ。どちらともなく、笑い声を漏らした。
「まあ、これで最後だ。不本意かも知らんが、我慢して付き合ってくれ」
少女と向かいの座席に腰を下ろし、少年が言う。
「嫌々付き合ってあげるとします。わたし、優しい後輩ですから」
そう言いながらも、少女の声から、繕った不機嫌さは失せていた。
「優しい後輩を持てて幸せだなあ、俺」
「でしょう? 光栄に思うといいです」
くくく、と押し殺した笑みを少年は漏らす。ふふふ、と少女も追随する。飽きるほど繰り返してきた日常の、最後の一回が始まった。暫しの歓談。最後とはいえ、交わすのはいつも通りの馬鹿話。
「―――日が暮れてきたな」
「ですね。随分喋ったものです」
部室の窓からは夕日が射し、二人の影は部室の壁際に達するほど。そろそろ校舎から追い出される時間帯。どちらともなく、居住まいを正す。こほん、と咳払いをひとつして、少年は真面目ぶった体で告げた。
「さて。最後になった訳だが、何か言っておくことはないか。恨み言でも何でもいいぞ」
「いえ、特になにも」
即座に、無表情に言ってのけた。少年の体が僅かに傾ぐ。
「……そうか? いやまあ確かに今生の別れって訳じゃあないが、ちょっと寂しい感も否定できないところだ」
その言葉に、少女は大きくため息をつく。
「ドラマティックな別れの演出を台無しにしてくれたのは何処の誰ですか、全く。最後にそんなこと言うくらいなら大人しくお芝居に乗ってくれれば良かったんですよ」
じっとり、と音の出そうな視線で睨めつけて、そう言った。道理だな、と少年は笑う。全くもう、と少女は頭を振る。ややあって、少年は真面目な表情を作り直し、こう告げた。
「―――なあ。俺とお前、こんな風に馬鹿みたいなこと喋ってばっかりだったけどさ。こんな風になった切っ掛け、覚えてるか?」
真剣な質問だと見なしたのだろう、少年の問いかけに、少女は僅かに逡巡し、
「……いいえ」
遠慮がちに否定を返す。少年は笑みを浮かべて、
「俺もだ」
胸を張りさえしながら、誇らしげに言ってのけた。少女の表情が、呆れに染まる。いよいよ、少年の笑みは濃くなるばかり。
「思わせぶりなこと言っておいて、それですか」
「違う違う。始まりが曖昧だったんだから、終わりもそんな感じにしておくのが俺たちらしいかな、ってさ。特別に何かする、ってんじゃなくて。明日もまた会うかのように、ってな」
ああ、なるほど、と少女が呟く。だろう、と少年が笑う。
「終わりくらいハッキリと、とも言えそうなものですけど……まあ、いいでしょう。先輩の顔を立てておいてあげます」
「重ね重ね、いい後輩を持てて幸せだよ、俺は」
「でしょう? もっともっと感謝してもらいたいものですね」
言いながら、少女は机に掛けていた自分の鞄を背負う。
「帰るのか?」
少年の問いかけに、少女は少し驚いた風に目を見開き、そして優しげに微笑して、
「一緒に帰りましょうか?」
少年はといえば、にやりと笑みを浮かべ。
「一緒に帰ったこと、無かったろ?」
そして、どちらともなく、笑い声を漏らした。
「……ふふ。帰るのか、って訊かれた覚えもありませんけど」
「まあ、最後の一回くらい、何か記憶に残ることをしておいても良かろう」
「おや。舌の根も乾かぬうちに、というのはこの事ですね」
「……察しろよ。多少は寂しいんだ、俺も」
「その寂しさの半分くらいは、わたしも寂しいですよ」
「冷血漢め」
「女ですけど」
そして、笑い声。
いつも通りの日常は、少しの変奏を残して、夕闇に消えた。
「卒業、おめでとうございます」
教室で名残を惜しむ会話を交わし、最後にと部室へ私物を回収しに向かった少年を出迎えたのは、後輩からの祝辞だった。今日は卒業式で、部室には誰もいないはずだ。だというのに、少女はいつも通りの位置に座り、少年の訪れを待っていた。扉を開けたその体勢のままで、少年は暫し硬直する。数秒の間を置いて、少年は口を開いた。
「……え? いま、何と?」
予期した反応からずれた物言いだったのか、少女の表情が呆れを帯びる。全く、と腰に手を当て、軽く首を振る。
「何って……こっちの台詞ですよそれ。何が何ですかって話です」
「ああ、いや―――お前の口から祝福の言葉が出てきた、という事実に脳が拒否反応をな。すまん」
真顔を作って、少年は言う。だが、口の端が僅かに吊り上がっていることに、少女は気付いた。ため息をひとつ、これだから、と呟きを漏らしつつ、しかし、少女の口の端もまた、同様に吊り上がる。
「どんだけ失礼ですか。……全く、最後くらいは真面目に送りだしてあげようという後輩心、たったいま残らず消滅しましたよ。ここから先は通常営業です」
機嫌の悪い風を装い、そう告げる。対して少年はにやりと笑い、
「悪いな。最後まで俺とお前はこんな感じだ」
「ええ、そのようですね。不本意ながら」
少女もまた、応えるように笑みを浮かべた。皮肉げな笑みが対称の像を結ぶ。どちらともなく、笑い声を漏らした。
「まあ、これで最後だ。不本意かも知らんが、我慢して付き合ってくれ」
少女と向かいの座席に腰を下ろし、少年が言う。
「嫌々付き合ってあげるとします。わたし、優しい後輩ですから」
そう言いながらも、少女の声から、繕った不機嫌さは失せていた。
「優しい後輩を持てて幸せだなあ、俺」
「でしょう? 光栄に思うといいです」
くくく、と押し殺した笑みを少年は漏らす。ふふふ、と少女も追随する。飽きるほど繰り返してきた日常の、最後の一回が始まった。暫しの歓談。最後とはいえ、交わすのはいつも通りの馬鹿話。
「―――日が暮れてきたな」
「ですね。随分喋ったものです」
部室の窓からは夕日が射し、二人の影は部室の壁際に達するほど。そろそろ校舎から追い出される時間帯。どちらともなく、居住まいを正す。こほん、と咳払いをひとつして、少年は真面目ぶった体で告げた。
「さて。最後になった訳だが、何か言っておくことはないか。恨み言でも何でもいいぞ」
「いえ、特になにも」
即座に、無表情に言ってのけた。少年の体が僅かに傾ぐ。
「……そうか? いやまあ確かに今生の別れって訳じゃあないが、ちょっと寂しい感も否定できないところだ」
その言葉に、少女は大きくため息をつく。
「ドラマティックな別れの演出を台無しにしてくれたのは何処の誰ですか、全く。最後にそんなこと言うくらいなら大人しくお芝居に乗ってくれれば良かったんですよ」
じっとり、と音の出そうな視線で睨めつけて、そう言った。道理だな、と少年は笑う。全くもう、と少女は頭を振る。ややあって、少年は真面目な表情を作り直し、こう告げた。
「―――なあ。俺とお前、こんな風に馬鹿みたいなこと喋ってばっかりだったけどさ。こんな風になった切っ掛け、覚えてるか?」
真剣な質問だと見なしたのだろう、少年の問いかけに、少女は僅かに逡巡し、
「……いいえ」
遠慮がちに否定を返す。少年は笑みを浮かべて、
「俺もだ」
胸を張りさえしながら、誇らしげに言ってのけた。少女の表情が、呆れに染まる。いよいよ、少年の笑みは濃くなるばかり。
「思わせぶりなこと言っておいて、それですか」
「違う違う。始まりが曖昧だったんだから、終わりもそんな感じにしておくのが俺たちらしいかな、ってさ。特別に何かする、ってんじゃなくて。明日もまた会うかのように、ってな」
ああ、なるほど、と少女が呟く。だろう、と少年が笑う。
「終わりくらいハッキリと、とも言えそうなものですけど……まあ、いいでしょう。先輩の顔を立てておいてあげます」
「重ね重ね、いい後輩を持てて幸せだよ、俺は」
「でしょう? もっともっと感謝してもらいたいものですね」
言いながら、少女は机に掛けていた自分の鞄を背負う。
「帰るのか?」
少年の問いかけに、少女は少し驚いた風に目を見開き、そして優しげに微笑して、
「一緒に帰りましょうか?」
少年はといえば、にやりと笑みを浮かべ。
「一緒に帰ったこと、無かったろ?」
そして、どちらともなく、笑い声を漏らした。
「……ふふ。帰るのか、って訊かれた覚えもありませんけど」
「まあ、最後の一回くらい、何か記憶に残ることをしておいても良かろう」
「おや。舌の根も乾かぬうちに、というのはこの事ですね」
「……察しろよ。多少は寂しいんだ、俺も」
「その寂しさの半分くらいは、わたしも寂しいですよ」
「冷血漢め」
「女ですけど」
そして、笑い声。
いつも通りの日常は、少しの変奏を残して、夕闇に消えた。
2012年1月30日月曜日
『かけらむすび』
第七回SSコンペ(お題:『雪』)
「行ってきまーす」
家の中に声を投げて、玄関を押し開ける。途端、外気が勢い良く吹き込んできた。
う、と唸って身震いする。午前7時半の空気は氷点を下回っており、外気に触れた瞬間、私は肌が張るような感覚を覚えた。
しばし無言で佇んだのち、薄く開いた玄関扉を元に戻して、玄関に立ち尽くす。
やや暖かさを取り戻す空気に、少しほっとする反面、こういうことすると却って後の寒さが強調されるんだよなあ、とため息をつく。
「せめて、二学期の一限くらいは回避できるようにするのが人情ってもんでしょうが……。雪国の大学なんだからさあ、そこんとこはもうちょっと配慮を……」
全く、何が悲しくて早朝から大学に登校せねばならないのか。進学が決まった頃には、これで寒い朝は寝ていられる、と何も知らず喜んだものだというのに。
家未満・外気以上の微妙な空気の中、体を震わせながらそんな呪詛を吐いていると、
「ごめんお姉ちゃん! 待った?」
妹がどたどたと足音を鳴らして、私の傍へと走ってきた。
上下のスキーウェアに、分厚い手袋。そういえば小学校にもスキー学習はあったなあ、と考える。
「んーん、いま出てきたとこ。じゃあ、行こっか」
小さな妹の手を引いて、私は改めて、玄関の扉を押し開けた。
***
妹と連れ立って、早朝の冬道をゆく。
昨晩はそれなりに雪が降ったのだろう、あちこちの家に雪かきをする人の姿があった。
道すがら、ご近所さんと挨拶を交わしたり、妹の友人たちが合流してきて賑やかになったり。
保母さんみたいだなあ、などと思いつつ、姦しい少女たちの声に引き摺られるようにして歩を進めた。
そんなこんなで、ある家の前に差し掛かった時。
妹とその友人たちは唐突に歩みを止めると、その家の車庫に向かって走っていった。
止める間もなく、彼女らは車庫のシャッターを開きにかかる。
あまりの展開にしばし呆気にとられていたものの、これは止めねばと思い直し、小走りに駆け寄ろうとしたのだが、
「ああ、いいんですよ。家の者もわかってますから」
家の持ち主だろう、柔和そうなおじいさんが戸口から声を掛けてきた。
よっぽど困惑した表情をしていたのだろうか、お爺さんは微笑みながら、目で車庫の方を見るよう促す。
見れば、彼女らは車庫の中から、膝丈程度の雪玉を運び出していた。
「……もしかして、雪だるま?」
そう呟くと、彼女らとお爺さんはにっこり笑って、頷いた。
***
道連れがひとり―――いや、胴体だけだから半人か―――増えての、雪中行軍。
なるべく綺麗な雪だけを巻き込もうとしているのだろう、新雪の上を選んで代わりばんこに雪玉を転がす一団の、少し後ろをついて歩く。
私が小さいころもこうやって登校したことがあったなあ、と郷愁に浸りつつ。
「……でも、どうして雪だるまを預かってもらってるの?」
そう訊くと、彼女らは顔を見合わせてから、楽しげに経緯を説明し始めた。
事の顛末を聞いて、納得する。
曰く、道路で雪だるまを転がすのは危ないから、車の通らない道だけでやりなさいと言われた。
曰く、そうなると雪だるまを道に放置しなければならなくなるが、道端の雪だるまは悪戯の格好の餌食である。
曰く、雪玉を途方に暮れていると、例の家のお爺さんが気を効かせて、車庫を開放してくれた。
これも町内会の連携の成せる業なのか、ならばウチでも、と同じように雪だるまを保管させてくれる家がもう一軒できたのだという。
こうして、彼女らは学校への行きと帰り、二箇所の家の間を雪だるまを転がしながら歩くことになったらしい。
「そっか。……でも、放課後にでも空き地に繰り出して転がしてやれば、すぐにでも完成させられるんじゃない?」
学童用の歩道で結ばれた二軒の間は、決して長くない。加えて、今年の雪は乾いている。
毎日転がしているとはいえ、ぼた雪でもなければ、短距離で大きくするのは難しいだろう。
そんなことを考えての提案だったが、彼女らは一様に首を振り、
「ううん。ちょっとずつ一緒に大きくなるの、楽しいから」
異口同音に、そのようなことを言った。
「なるほど。……なるほど」
返ってきた言葉に、唸らされる。
「お姉ちゃん、ちょっと感心しちゃったぜ」
軽口めかして言ってはみたが、本当に、感心したのだ。
***
それからも、彼女らの雪だるま作りは続いた。
毎日一緒に登校していた訳ではないけれど、徐々に大きくなっていく雪だるまを見ることは、私の楽しみにもなっていた。
膝丈だった雪玉が腰の大きさになり、胸の近くまで到達する頃には、雪の季節は半分を折り返したところまで来ていた。
半身はこれで完成、として。そこからまた、小さな雪玉を転がす日々が続く。
大きな雪玉を転がす光景は、当初こそ通行人に驚きの反応をもって迎えられたものの、毎日のように繰り返すうち、朝の風物詩として微笑ましく見守られるようになった。
そんなふうに日々を重ねて、二つ目の雪玉が彼女らの胸ほどに達する頃には、季節は春になりかけていた。
もう冬ではない、と主張する、暖かな日差し。
残雪の照り返しが目に痛い、そんな晩冬、或いは初春の日。
遂に、我々の(心情的には私も一員である!)雪だるまがパイルダーオンされる時がやってきた。
「……で、本当にお姉ちゃんがやっちゃっていいの?」
やや小さい方の雪玉を抱えながら、問うてみる。
一員だ、などと言ってはみたものの、私自身は一度も転がしに参加していない。
気恥ずかしかったから、というのもあり、彼女らだけの手で完成させるべきだと思った、というのもあり。
動機はどもかく、最後の最後に私の手を入れてしまうというのは、いかがなものか。
「わたしたち、届かないし」
うんうん、と一斉に頷く少女ら。
「うん。落として割っちゃったら嫌だもんね」
痛そうだもんねー、と飛び跳ねながら言う。
頭が割れたら大変だ、と口々に。
「お姉ちゃんなら安心だもの」
そして止めに、この台詞。
お姉ちゃんはすごいもんねー、と誉めそやす少女らを前にして、これ以上固辞することが、誰にできようか。
「……左様で」
ハードル上げてくれるなあ、と嘆きつつ、少しでもかっこよく首が座るよう、私は微調整の構えに入った。
***
完成した雪だるまは暫くの間、近所の名物となった。
元より、雪玉を転がす少女らの姿は有名だった。あの雪だるまが遂に完成したのかと、わざわざ見に来た人も、きっと居たことだろう。
悪戯されないようにと、件のお爺さんの家に飾られた雪だるま。所有権を巡って二人のご老人が戦ったという噂もあるが、置いておいて。
少女らと共に歩み(転がり?)、立つことが叶った雪だるまだけれど、しかし既に季節は春。
この先に別れが待っていることは、誰もが理解していた。
「ねえお姉ちゃん。あの雪だるま、あのままにしておけないかなあ」
「んー……。流石に難しいと思うなあ。業務用冷凍庫でもない限り……」
「そっかー……」
私が小さい頃も、雪で作ったものが融けていくのを見るのは、辛かった記憶がある。
何とかしてあげたい、とは思うものの。現実に対処法があるかと言われれば、ない、と答えるしかない。
お爺さんが気を利かせて車庫の中に移してくれたけれど、直射日光が当たらなくとも、気温で融ける瞬間は訪れる。
別れは不可避。とはいえ、このままその瞬間を待つのも癪だなあ……などと考えて、しばらく経った、ある日。
何気なくテレビを観ていて、
「―――あ、これだ」
閃いた。
***
雪だるまが水に還る瞬間を、皆で見送った。
外に出された雪だるまは、春の陽気に炙られて、呆気無くその姿を消した。
やはりと言うべきか、消沈する少女たちに、私は一つずつ、あるものを渡した。
それは、手のひらサイズの、雪だるま形の容器。
首を傾げる彼女らに、開けてみな、と促すと、
「―――わ。中に雪が入ってる」
「ねえ、これって―――」
少女たちの期待の眼差しが、目に眩しい。
それは、十数年越しの、過去の私の眼差しでもあったのだろう。
「うん。みんなが作った、雪だるま」
ひと掬いずつ拝借した雪だるまの欠片を、容器に納めただけのもの。
沖縄に雪を―――色々な自治体で行われている雪の輸送事業、その形を模倣させてもらった。
「もしもまた来年、雪だるまが作りたくなったらさ。その雪を混ぜ込んで、また一から転がそう」
そうやって続いていけばいいな、と夢想する。彼女らが私くらいの年になっても―――というのは、いささか気の長すぎる話であるけれど。
人間の代謝と連続性、なんて話は無粋だろう。魂、とでも言っておけばいい。そういうものだ、たぶん。
「その時はまた、仲間に入れてくれる?」
こうして、私たちの冬は終わった。
春がきて、夏がきて、秋がきて、また冬がくる。
証をひとつ、持ち越して。その時をまた、楽しみに待とう。
「行ってきまーす」
家の中に声を投げて、玄関を押し開ける。途端、外気が勢い良く吹き込んできた。
う、と唸って身震いする。午前7時半の空気は氷点を下回っており、外気に触れた瞬間、私は肌が張るような感覚を覚えた。
しばし無言で佇んだのち、薄く開いた玄関扉を元に戻して、玄関に立ち尽くす。
やや暖かさを取り戻す空気に、少しほっとする反面、こういうことすると却って後の寒さが強調されるんだよなあ、とため息をつく。
「せめて、二学期の一限くらいは回避できるようにするのが人情ってもんでしょうが……。雪国の大学なんだからさあ、そこんとこはもうちょっと配慮を……」
全く、何が悲しくて早朝から大学に登校せねばならないのか。進学が決まった頃には、これで寒い朝は寝ていられる、と何も知らず喜んだものだというのに。
家未満・外気以上の微妙な空気の中、体を震わせながらそんな呪詛を吐いていると、
「ごめんお姉ちゃん! 待った?」
妹がどたどたと足音を鳴らして、私の傍へと走ってきた。
上下のスキーウェアに、分厚い手袋。そういえば小学校にもスキー学習はあったなあ、と考える。
「んーん、いま出てきたとこ。じゃあ、行こっか」
小さな妹の手を引いて、私は改めて、玄関の扉を押し開けた。
***
妹と連れ立って、早朝の冬道をゆく。
昨晩はそれなりに雪が降ったのだろう、あちこちの家に雪かきをする人の姿があった。
道すがら、ご近所さんと挨拶を交わしたり、妹の友人たちが合流してきて賑やかになったり。
保母さんみたいだなあ、などと思いつつ、姦しい少女たちの声に引き摺られるようにして歩を進めた。
そんなこんなで、ある家の前に差し掛かった時。
妹とその友人たちは唐突に歩みを止めると、その家の車庫に向かって走っていった。
止める間もなく、彼女らは車庫のシャッターを開きにかかる。
あまりの展開にしばし呆気にとられていたものの、これは止めねばと思い直し、小走りに駆け寄ろうとしたのだが、
「ああ、いいんですよ。家の者もわかってますから」
家の持ち主だろう、柔和そうなおじいさんが戸口から声を掛けてきた。
よっぽど困惑した表情をしていたのだろうか、お爺さんは微笑みながら、目で車庫の方を見るよう促す。
見れば、彼女らは車庫の中から、膝丈程度の雪玉を運び出していた。
「……もしかして、雪だるま?」
そう呟くと、彼女らとお爺さんはにっこり笑って、頷いた。
***
道連れがひとり―――いや、胴体だけだから半人か―――増えての、雪中行軍。
なるべく綺麗な雪だけを巻き込もうとしているのだろう、新雪の上を選んで代わりばんこに雪玉を転がす一団の、少し後ろをついて歩く。
私が小さいころもこうやって登校したことがあったなあ、と郷愁に浸りつつ。
「……でも、どうして雪だるまを預かってもらってるの?」
そう訊くと、彼女らは顔を見合わせてから、楽しげに経緯を説明し始めた。
事の顛末を聞いて、納得する。
曰く、道路で雪だるまを転がすのは危ないから、車の通らない道だけでやりなさいと言われた。
曰く、そうなると雪だるまを道に放置しなければならなくなるが、道端の雪だるまは悪戯の格好の餌食である。
曰く、雪玉を途方に暮れていると、例の家のお爺さんが気を効かせて、車庫を開放してくれた。
これも町内会の連携の成せる業なのか、ならばウチでも、と同じように雪だるまを保管させてくれる家がもう一軒できたのだという。
こうして、彼女らは学校への行きと帰り、二箇所の家の間を雪だるまを転がしながら歩くことになったらしい。
「そっか。……でも、放課後にでも空き地に繰り出して転がしてやれば、すぐにでも完成させられるんじゃない?」
学童用の歩道で結ばれた二軒の間は、決して長くない。加えて、今年の雪は乾いている。
毎日転がしているとはいえ、ぼた雪でもなければ、短距離で大きくするのは難しいだろう。
そんなことを考えての提案だったが、彼女らは一様に首を振り、
「ううん。ちょっとずつ一緒に大きくなるの、楽しいから」
異口同音に、そのようなことを言った。
「なるほど。……なるほど」
返ってきた言葉に、唸らされる。
「お姉ちゃん、ちょっと感心しちゃったぜ」
軽口めかして言ってはみたが、本当に、感心したのだ。
***
それからも、彼女らの雪だるま作りは続いた。
毎日一緒に登校していた訳ではないけれど、徐々に大きくなっていく雪だるまを見ることは、私の楽しみにもなっていた。
膝丈だった雪玉が腰の大きさになり、胸の近くまで到達する頃には、雪の季節は半分を折り返したところまで来ていた。
半身はこれで完成、として。そこからまた、小さな雪玉を転がす日々が続く。
大きな雪玉を転がす光景は、当初こそ通行人に驚きの反応をもって迎えられたものの、毎日のように繰り返すうち、朝の風物詩として微笑ましく見守られるようになった。
そんなふうに日々を重ねて、二つ目の雪玉が彼女らの胸ほどに達する頃には、季節は春になりかけていた。
もう冬ではない、と主張する、暖かな日差し。
残雪の照り返しが目に痛い、そんな晩冬、或いは初春の日。
遂に、我々の(心情的には私も一員である!)雪だるまがパイルダーオンされる時がやってきた。
「……で、本当にお姉ちゃんがやっちゃっていいの?」
やや小さい方の雪玉を抱えながら、問うてみる。
一員だ、などと言ってはみたものの、私自身は一度も転がしに参加していない。
気恥ずかしかったから、というのもあり、彼女らだけの手で完成させるべきだと思った、というのもあり。
動機はどもかく、最後の最後に私の手を入れてしまうというのは、いかがなものか。
「わたしたち、届かないし」
うんうん、と一斉に頷く少女ら。
「うん。落として割っちゃったら嫌だもんね」
痛そうだもんねー、と飛び跳ねながら言う。
頭が割れたら大変だ、と口々に。
「お姉ちゃんなら安心だもの」
そして止めに、この台詞。
お姉ちゃんはすごいもんねー、と誉めそやす少女らを前にして、これ以上固辞することが、誰にできようか。
「……左様で」
ハードル上げてくれるなあ、と嘆きつつ、少しでもかっこよく首が座るよう、私は微調整の構えに入った。
***
完成した雪だるまは暫くの間、近所の名物となった。
元より、雪玉を転がす少女らの姿は有名だった。あの雪だるまが遂に完成したのかと、わざわざ見に来た人も、きっと居たことだろう。
悪戯されないようにと、件のお爺さんの家に飾られた雪だるま。所有権を巡って二人のご老人が戦ったという噂もあるが、置いておいて。
少女らと共に歩み(転がり?)、立つことが叶った雪だるまだけれど、しかし既に季節は春。
この先に別れが待っていることは、誰もが理解していた。
「ねえお姉ちゃん。あの雪だるま、あのままにしておけないかなあ」
「んー……。流石に難しいと思うなあ。業務用冷凍庫でもない限り……」
「そっかー……」
私が小さい頃も、雪で作ったものが融けていくのを見るのは、辛かった記憶がある。
何とかしてあげたい、とは思うものの。現実に対処法があるかと言われれば、ない、と答えるしかない。
お爺さんが気を利かせて車庫の中に移してくれたけれど、直射日光が当たらなくとも、気温で融ける瞬間は訪れる。
別れは不可避。とはいえ、このままその瞬間を待つのも癪だなあ……などと考えて、しばらく経った、ある日。
何気なくテレビを観ていて、
「―――あ、これだ」
閃いた。
***
雪だるまが水に還る瞬間を、皆で見送った。
外に出された雪だるまは、春の陽気に炙られて、呆気無くその姿を消した。
やはりと言うべきか、消沈する少女たちに、私は一つずつ、あるものを渡した。
それは、手のひらサイズの、雪だるま形の容器。
首を傾げる彼女らに、開けてみな、と促すと、
「―――わ。中に雪が入ってる」
「ねえ、これって―――」
少女たちの期待の眼差しが、目に眩しい。
それは、十数年越しの、過去の私の眼差しでもあったのだろう。
「うん。みんなが作った、雪だるま」
ひと掬いずつ拝借した雪だるまの欠片を、容器に納めただけのもの。
沖縄に雪を―――色々な自治体で行われている雪の輸送事業、その形を模倣させてもらった。
「もしもまた来年、雪だるまが作りたくなったらさ。その雪を混ぜ込んで、また一から転がそう」
そうやって続いていけばいいな、と夢想する。彼女らが私くらいの年になっても―――というのは、いささか気の長すぎる話であるけれど。
人間の代謝と連続性、なんて話は無粋だろう。魂、とでも言っておけばいい。そういうものだ、たぶん。
「その時はまた、仲間に入れてくれる?」
こうして、私たちの冬は終わった。
春がきて、夏がきて、秋がきて、また冬がくる。
証をひとつ、持ち越して。その時をまた、楽しみに待とう。
2012年1月16日月曜日
『起き抜けイライラ棒』
第6回SSコンペ(お題:『寝起きの出来事』)
目覚めを迎える直前の、この微睡みこそが醍醐味なのだ―――と、曖昧に拡散した意識の中で思う。半ば覚醒し、半ば眠りに就いたままの状態で、顕在しているとも潜在しているともつかない自我認識を弄ぶ、この時間こそが一日で最も尊い瞬間なのだと、僕は信じて疑わない。
だからこそ、目覚めに際して感じた片腕の痺れに、僕は強い違和を感じた。身体的な異状があれば、曖昧に覚醒した状態を保つことは難しくなる。均衡を保とうにも、すぐに目を覚ましてしまう。それを知っているから、僕はセルフ腕枕で腕を痺れさせるのを避けるため、両腕共に掛け布団の下へとしっかり収納してから眠りに就いているはずなのだった。寝起きの痺れなんてものを最後に感じたのはいつだったろう、と疑問に思えるほど、久しく経験していない現象だ。
―――などと、小難しく現状を分析している時点で、既にして覚醒は始まってしまったと見て間違いない。ここから気持ちのいい状態まで退行するのは至難の業だろう、と考える。僕は諦めて目を覚まし、現状を確認する覚悟を決めた。瞼を開き、痺れている左腕を見る。
そこには、僕の腕を背中で下敷きにしつつ、熟睡する姉がいた。
僅かに残っていた眠気は、その光景を認識した瞬間に吹き飛んだ。脳内に警報が響き渡る。本能はヤバいと喚き、理性は可及的速やかに状況を脱せよと急かしてくる。いずれにせよ、判断と行動が急務であると悟った。
まず僕が行ったのは、周囲の状況確認だった。目線だけを動かして確認を行う。現在地が確かに僕の部屋であることを認識して、軽く息をついた。間違いなく、ここは僕の部屋だ。もしも万が一、寝ぼけた僕が姉の布団に侵入してしまっていたのだとすれば、これはもう言い訳の利かない状況で、起きた姉に申し開きをする暇もなく殺されるしかないだろう。だが、姉の方が間違えて―――或いは何か意図があるのかもしれないが―――侵入してきたというのなら、これは僕の側に利がある。少なくとも、僕が一方的に悪いという話にはなるまい。我ながら弱気にも程がある分析だが、戦場で長く生き残れるのは臆病者だけなのだ。
さて、僕側の過失ではないと知れた訳だが、それでも状況はオールグリーンとは言いがたい。目覚めた姉が寝ぼけた状態でこの状況を認識したら、どうなるか。反射的に殴られるか、締められるか、極められるか―――少なくとも、僕が痛みを受けるであろうことは明白だ。理性の薄まった時の姉はひらすらに怖い。時間切れまで待つだけでは駄目だ、と認識せざるを得ない。つまり、ここが僕の部屋だろうが姉の部屋だろうが、どのみち退避する以外に道は無かったらしい、ということだ。
そう考えると、姉が起きる前に部屋を辞し、「何で姉さんが僕の部屋で寝てるのさ?」と困り顔で揶揄するくらいの線が適当なように思える。意識のはっきりした姉相手なら、理不尽な暴力を被ることはないはずだ。……たぶん、きっと。
方針が纏まったので、脱出を試みる。幸いと言っていいのかどうか、圧し潰されているのは片腕だけだ。もしも体全体で抱き着かれていれば詰みだったのだろうが、神は僕を見放してはいないらしい。腕を極力下方向にずらし、布団にめり込ませるようにしながら、ゆっくりと引き抜きにかかる。パジャマ越しの暖かさだとか、布地を引き込む時に感じる肌との摩擦だとかについては一切考えないよう、努めて煩悩を殺しつつ、ゆっくりと。
やがて、腕全体が抜けそうな位置にまで到達した。大きな恐怖から解放された安堵と、少しの未練―――あまり深く考えるべきではなさそうだ―――を覚えつつ、さりとて最後まで気を抜くべきではないと自戒し、より注意深い動きで、手を引き抜いた。
やった、と思ったのも束の間。
途端、姉の体が大きく寝返りをうち、ここ数分での僕の努力は水泡に帰した。
……いや、単純に状況が巻き戻されるのなら、それはまだいい。やり直せばいいのだから。だが、今回は違う。寝返りと同時に伸ばされた腕は、僕の背中にしっかりと回されており―――当初危惧していた「最悪」の状況が、ここに成立していた。試しに少し身じろぎしてみても、拘束が解けるような感触は全くない。頭側か足側かに抜けられないかとも思ったが、悪いことに妙な手の回され方をしたらしく、服を脱ぐがごとく抜けることは難しいように思えた。作為を感じさせるほどに都合の悪い配置だった。完全に詰んでいる。
どうしたものか、必死に考える。考えて、考えて―――
「……どうせ詰んでるなら、少しでも幸福の貯蓄分を増やしておく方向で」
おやすみなさい、と呟いて二度寝に走る。清々しいまでの現実逃避に、我が事ながら、笑いが漏れた。もうどうにでもなれ、と自棄糞ぎみに心中呟いて、目を閉じる。
「―――ああ、そうだ。毒を食らわば、何とやら」
どうせ無事には済まないのだからと、両腕を姉の背中に回して……力を込めることは流石にできなかったけれど、そのまま、姉と抱き合うような姿勢を形作る。寝ている最中に抱きついたりするのだろうし、早いか遅いかの違いだけだ、と誰にともなく言い訳をする。
殴られて目覚めるのは嫌だなあ、などと思いながら、僕は再び微睡んだ。
「……いくじなしめ。眠気に任せて襲って来るくらいの積極性を期待してたんだけど、な」
薄目を開き、呟いて。
姉は少しだけ、弟を抱く腕に力を込めた。
目覚めを迎える直前の、この微睡みこそが醍醐味なのだ―――と、曖昧に拡散した意識の中で思う。半ば覚醒し、半ば眠りに就いたままの状態で、顕在しているとも潜在しているともつかない自我認識を弄ぶ、この時間こそが一日で最も尊い瞬間なのだと、僕は信じて疑わない。
だからこそ、目覚めに際して感じた片腕の痺れに、僕は強い違和を感じた。身体的な異状があれば、曖昧に覚醒した状態を保つことは難しくなる。均衡を保とうにも、すぐに目を覚ましてしまう。それを知っているから、僕はセルフ腕枕で腕を痺れさせるのを避けるため、両腕共に掛け布団の下へとしっかり収納してから眠りに就いているはずなのだった。寝起きの痺れなんてものを最後に感じたのはいつだったろう、と疑問に思えるほど、久しく経験していない現象だ。
―――などと、小難しく現状を分析している時点で、既にして覚醒は始まってしまったと見て間違いない。ここから気持ちのいい状態まで退行するのは至難の業だろう、と考える。僕は諦めて目を覚まし、現状を確認する覚悟を決めた。瞼を開き、痺れている左腕を見る。
そこには、僕の腕を背中で下敷きにしつつ、熟睡する姉がいた。
僅かに残っていた眠気は、その光景を認識した瞬間に吹き飛んだ。脳内に警報が響き渡る。本能はヤバいと喚き、理性は可及的速やかに状況を脱せよと急かしてくる。いずれにせよ、判断と行動が急務であると悟った。
まず僕が行ったのは、周囲の状況確認だった。目線だけを動かして確認を行う。現在地が確かに僕の部屋であることを認識して、軽く息をついた。間違いなく、ここは僕の部屋だ。もしも万が一、寝ぼけた僕が姉の布団に侵入してしまっていたのだとすれば、これはもう言い訳の利かない状況で、起きた姉に申し開きをする暇もなく殺されるしかないだろう。だが、姉の方が間違えて―――或いは何か意図があるのかもしれないが―――侵入してきたというのなら、これは僕の側に利がある。少なくとも、僕が一方的に悪いという話にはなるまい。我ながら弱気にも程がある分析だが、戦場で長く生き残れるのは臆病者だけなのだ。
さて、僕側の過失ではないと知れた訳だが、それでも状況はオールグリーンとは言いがたい。目覚めた姉が寝ぼけた状態でこの状況を認識したら、どうなるか。反射的に殴られるか、締められるか、極められるか―――少なくとも、僕が痛みを受けるであろうことは明白だ。理性の薄まった時の姉はひらすらに怖い。時間切れまで待つだけでは駄目だ、と認識せざるを得ない。つまり、ここが僕の部屋だろうが姉の部屋だろうが、どのみち退避する以外に道は無かったらしい、ということだ。
そう考えると、姉が起きる前に部屋を辞し、「何で姉さんが僕の部屋で寝てるのさ?」と困り顔で揶揄するくらいの線が適当なように思える。意識のはっきりした姉相手なら、理不尽な暴力を被ることはないはずだ。……たぶん、きっと。
方針が纏まったので、脱出を試みる。幸いと言っていいのかどうか、圧し潰されているのは片腕だけだ。もしも体全体で抱き着かれていれば詰みだったのだろうが、神は僕を見放してはいないらしい。腕を極力下方向にずらし、布団にめり込ませるようにしながら、ゆっくりと引き抜きにかかる。パジャマ越しの暖かさだとか、布地を引き込む時に感じる肌との摩擦だとかについては一切考えないよう、努めて煩悩を殺しつつ、ゆっくりと。
やがて、腕全体が抜けそうな位置にまで到達した。大きな恐怖から解放された安堵と、少しの未練―――あまり深く考えるべきではなさそうだ―――を覚えつつ、さりとて最後まで気を抜くべきではないと自戒し、より注意深い動きで、手を引き抜いた。
やった、と思ったのも束の間。
途端、姉の体が大きく寝返りをうち、ここ数分での僕の努力は水泡に帰した。
……いや、単純に状況が巻き戻されるのなら、それはまだいい。やり直せばいいのだから。だが、今回は違う。寝返りと同時に伸ばされた腕は、僕の背中にしっかりと回されており―――当初危惧していた「最悪」の状況が、ここに成立していた。試しに少し身じろぎしてみても、拘束が解けるような感触は全くない。頭側か足側かに抜けられないかとも思ったが、悪いことに妙な手の回され方をしたらしく、服を脱ぐがごとく抜けることは難しいように思えた。作為を感じさせるほどに都合の悪い配置だった。完全に詰んでいる。
どうしたものか、必死に考える。考えて、考えて―――
「……どうせ詰んでるなら、少しでも幸福の貯蓄分を増やしておく方向で」
おやすみなさい、と呟いて二度寝に走る。清々しいまでの現実逃避に、我が事ながら、笑いが漏れた。もうどうにでもなれ、と自棄糞ぎみに心中呟いて、目を閉じる。
「―――ああ、そうだ。毒を食らわば、何とやら」
どうせ無事には済まないのだからと、両腕を姉の背中に回して……力を込めることは流石にできなかったけれど、そのまま、姉と抱き合うような姿勢を形作る。寝ている最中に抱きついたりするのだろうし、早いか遅いかの違いだけだ、と誰にともなく言い訳をする。
殴られて目覚めるのは嫌だなあ、などと思いながら、僕は再び微睡んだ。
「……いくじなしめ。眠気に任せて襲って来るくらいの積極性を期待してたんだけど、な」
薄目を開き、呟いて。
姉は少しだけ、弟を抱く腕に力を込めた。
2011年12月31日土曜日
『真打ちは』
第5回SSコンペ(お題:『クリスマス』)
大晦日の夜。コンビニで年越しに備えた買い物を済ませた私は、その帰路、道の端に見慣れないものを見つけた。
“サンタは要りませんか”―――手書きでそう記されたダンボールの中に、虚ろな目をした老人が座っていたのだ。
上下揃った赤い服に、たくわえられた豊かな髭。なるほど、外見的特徴だけ見れば確かにサンタだ。サンタが道端に捨てられていた。非日常的な、そして時期を逸してもいる光景に、私は暫し硬直することを余儀なくされる。
そんな風に足を止めて見入ってしまったせいだろうか、気付けば老人は顔を上げ、私と視線を合わせていた。あ、まずい、と思った時にはもう遅い。
「サンタは要らんかね?」
老人は身を乗り出すと、皺だらけの顔に微笑みを浮かべ、そう言った。外見から受ける印象通りの、深みのある声だった。
早く家に帰って暖まりたい、という思いがまずあったし、そうでなくとも関わり合いになどなりたくなかったので、なるべくそっけなく聞こえるよう努めつつ、断りの旨を伝えることにした。
「いえ結構です。それでは」
そう言い残して歩き出そうとすると、老人は段ボールごと私の眼前に滑り込み、進路を塞いできた。身の危険を感じるほどの俊敏さに、これは不味いと直感し、遠回りして帰ろうと踵を返す。
すると、
「待ちたまえお嬢さん話だけでも!」
「んなぁっ!?」
踏み出そうとした足に重みが加わり、バランスを崩した私は前のめりに倒れこむことになった。びたん、と音の出そうな、綺麗な倒れざまを晒してしまう。
後ろを見やれば、老人が私の片足をがっしりと握りしめていた。腹ばいで縋りつく姿勢に、いつか見たゾンビ退治ゲームの思い出が重なる。
「そう、あれは今を遡ること6日、25日のことじゃった……。諸般の事情でプレゼントを配り損ねたうえ他のサンタに尻拭いをしてもらったワシは、クリスマスを完遂しないことには帰還してはならぬとのお達しを受けたのじゃよ」
そして喋り始める老人。
血走った目が私の不安感を効果的に煽ってくる。同時に、大事な部分を全て割愛した説明に愕然とする。
「であるからして、ワシは最低一人にプレゼントを齎さねばならない。それも良い子にな。じゃが、ここ6日間において、ついぞ一人も現れることはなかった―――そう、ワシを気にかけてくれるような良い子は、な。……君を除いて」
なるほど、顛末は全く見えないが、要求だけは理解できた。
それにしてもいい加減離せと言いたい気持ちはこれ以上無いほどに強まっていたが、早々に相手方の要望を叶えてやるのがおそらく最善手と思い、
「じゃあ、『怪しい老人からの解放』をください。帰りたいので」
win-winな提案をしてみた。これで話は終了するはずである。
しかし老人は表情を曇らせ、
「その願いは叶えられない。正確に言えば、それを本部に持って帰ったワシが許されそうにないから叶えたくない……」
沈痛な面持ちでそう漏らした。
「……警察呼ばれたいならそうしますけど?」
「サンタは割とイリーガルな存在じゃから、公権力の召喚はできれば遠慮してほしいんじゃが」
「じゃあ呼びませんから、さっさと離してください」
「うむ。きっとじゃぞ」
足を離された瞬間に走って逃げてやろうかとも思ったが、消沈した老人をこれ以上落ち込ませるのもなんだか気が咎める。
立ち上がった私を見やると、老人は恰幅の良い腹を揺らしてこう言った。
「さあ、欲しいものを言うがよい」
先程から帰りたい気持ちがとどまるところを知らなかったため、とにかく何でもいいから思いついたものを口にしていこうと考える。
「じゃあ、『お金』」
「残念、この6日で消費してしまった。素寒貧さ」
「だったらもう他のプレゼントも無理でしょうが!」
「じゃあ、もしこのサンタ服が欲しければ譲るにやぶさかではないが……代わりにワシが全裸になるけど」
「要らんわ!」
そのまま、なんとか納得させつつ早々に話を終わらせられないか、と思案していると、ごーん、ごーんと重く低い音が響き始めた。新年の合図だ。
こんな年越しを迎えると予想できていたはずもなく、猛烈な虚脱感に襲われる。
「まさか、今年最後の思い出が変な老人との問答だなんて……」
そんな私を見て、老人が何かを思いついたのだろう、満面の笑みを浮かべた。
「……えー、では、『年越しを一緒に過ごしてあげた』というのがプレゼントだった、ということでひとつ」
大晦日の夜。コンビニで年越しに備えた買い物を済ませた私は、その帰路、道の端に見慣れないものを見つけた。
“サンタは要りませんか”―――手書きでそう記されたダンボールの中に、虚ろな目をした老人が座っていたのだ。
上下揃った赤い服に、たくわえられた豊かな髭。なるほど、外見的特徴だけ見れば確かにサンタだ。サンタが道端に捨てられていた。非日常的な、そして時期を逸してもいる光景に、私は暫し硬直することを余儀なくされる。
そんな風に足を止めて見入ってしまったせいだろうか、気付けば老人は顔を上げ、私と視線を合わせていた。あ、まずい、と思った時にはもう遅い。
「サンタは要らんかね?」
老人は身を乗り出すと、皺だらけの顔に微笑みを浮かべ、そう言った。外見から受ける印象通りの、深みのある声だった。
早く家に帰って暖まりたい、という思いがまずあったし、そうでなくとも関わり合いになどなりたくなかったので、なるべくそっけなく聞こえるよう努めつつ、断りの旨を伝えることにした。
「いえ結構です。それでは」
そう言い残して歩き出そうとすると、老人は段ボールごと私の眼前に滑り込み、進路を塞いできた。身の危険を感じるほどの俊敏さに、これは不味いと直感し、遠回りして帰ろうと踵を返す。
すると、
「待ちたまえお嬢さん話だけでも!」
「んなぁっ!?」
踏み出そうとした足に重みが加わり、バランスを崩した私は前のめりに倒れこむことになった。びたん、と音の出そうな、綺麗な倒れざまを晒してしまう。
後ろを見やれば、老人が私の片足をがっしりと握りしめていた。腹ばいで縋りつく姿勢に、いつか見たゾンビ退治ゲームの思い出が重なる。
「そう、あれは今を遡ること6日、25日のことじゃった……。諸般の事情でプレゼントを配り損ねたうえ他のサンタに尻拭いをしてもらったワシは、クリスマスを完遂しないことには帰還してはならぬとのお達しを受けたのじゃよ」
そして喋り始める老人。
血走った目が私の不安感を効果的に煽ってくる。同時に、大事な部分を全て割愛した説明に愕然とする。
「であるからして、ワシは最低一人にプレゼントを齎さねばならない。それも良い子にな。じゃが、ここ6日間において、ついぞ一人も現れることはなかった―――そう、ワシを気にかけてくれるような良い子は、な。……君を除いて」
なるほど、顛末は全く見えないが、要求だけは理解できた。
それにしてもいい加減離せと言いたい気持ちはこれ以上無いほどに強まっていたが、早々に相手方の要望を叶えてやるのがおそらく最善手と思い、
「じゃあ、『怪しい老人からの解放』をください。帰りたいので」
win-winな提案をしてみた。これで話は終了するはずである。
しかし老人は表情を曇らせ、
「その願いは叶えられない。正確に言えば、それを本部に持って帰ったワシが許されそうにないから叶えたくない……」
沈痛な面持ちでそう漏らした。
「……警察呼ばれたいならそうしますけど?」
「サンタは割とイリーガルな存在じゃから、公権力の召喚はできれば遠慮してほしいんじゃが」
「じゃあ呼びませんから、さっさと離してください」
「うむ。きっとじゃぞ」
足を離された瞬間に走って逃げてやろうかとも思ったが、消沈した老人をこれ以上落ち込ませるのもなんだか気が咎める。
立ち上がった私を見やると、老人は恰幅の良い腹を揺らしてこう言った。
「さあ、欲しいものを言うがよい」
先程から帰りたい気持ちがとどまるところを知らなかったため、とにかく何でもいいから思いついたものを口にしていこうと考える。
「じゃあ、『お金』」
「残念、この6日で消費してしまった。素寒貧さ」
「だったらもう他のプレゼントも無理でしょうが!」
「じゃあ、もしこのサンタ服が欲しければ譲るにやぶさかではないが……代わりにワシが全裸になるけど」
「要らんわ!」
そのまま、なんとか納得させつつ早々に話を終わらせられないか、と思案していると、ごーん、ごーんと重く低い音が響き始めた。新年の合図だ。
こんな年越しを迎えると予想できていたはずもなく、猛烈な虚脱感に襲われる。
「まさか、今年最後の思い出が変な老人との問答だなんて……」
そんな私を見て、老人が何かを思いついたのだろう、満面の笑みを浮かべた。
「……えー、では、『年越しを一緒に過ごしてあげた』というのがプレゼントだった、ということでひとつ」
2011年12月14日水曜日
『お気に召さぬ理由』
第4回SSコンペ(お題:『イノセント』)
「この少女型アンドロイドはとある職人の遺作なのだが、貰われた先で拒絶され続けてしまい、困っている。引き取ってもらえないだろうか」
こんな依頼を持ち掛けられた時の私の顔は、きっと傍目には笑えるほどに呆けたものだったろう。
弁解させてもらえば、そもそもアンドロイドというのは、基本的には身の回りの世話を任せるために手に入れるものである。対話の相手や、その―――性処理の相手としての役割を課されることもあるのだろうけど、まあ、ともかく、基本的には。依頼主は昔からの知り合いで、私が人であれ機械であれ、新たなお手伝いを必要としない程度には自律した生活を遅れていると知っているはずだ。だから、この依頼は完全に私の虚を衝くものだった。少しくらい呆けたって、それは仕方がないというものだろう。
なのにどうして、と問うと、渡されたのは一枚の仕様書だった。製作者の欄には、私の幼馴染だった……恋人になることのできなかった男性の名が、あった。幼い頃はずっと一緒で、でも、どうしても先の段階に踏み込めなかった関係性の、その片割れ。その名を見て、ああ、なるほど、と納得する。
顛末はおそらくこうだ、『貰い手のつかないアンドロイド、遺作がゆえに処分するのも忍びない、ならば作者の縁故を頼るというのはどうか』。そりゃあ、私にお鉢が回ってくる訳だ。あいつと親しかった人間なんて、それこそ私くらいのものなんだから。―――思考の内容に誇らしげな色が混ざっていることに気付き、微かな羞恥を憶える。
確認を取ってみれば、正に私が予想した通りの流れだったようで、我ながら奴に関しては観察力が冴え渡るな、と感心する。まさか死後の出来事で実感することになろうとは、夢にも思っていなかったが。
一頻り納得した、その後。
どういう話を経たのかは、なぜだか上の空だったので覚えていないが、彼女を引き取ることになったらしい。今後ともよろしく、と少女に声を掛け、依頼人とは、長く続けられなそうであれば連絡を、との約束を交わした。これで、少女は私のものとなった。……言葉にしてみると、嫌な響きではある。
程なくして、依頼人が帰っていった。見送りを済ませ、自室に戻った、その途端。部屋に待たせておいた、これから私と共に過ごすことになるであろう彼女が、小さな歩幅を刻みながら、私に駆け寄ってきた。
なんだろう、と思う暇もなく。彼女はポケットからハンカチを取り出すと、背伸びをして、私の顔に押し当てた。
「じっとしていてください」
不器用な手つきで、私の顔を拭う。
―――ああ、泣いてるんだ、と気付いたのは、この瞬間だった。
自覚すると、そこには確かに、感情の奔流があった。それを、喪失の悲しみだとか、後悔の念だとか、そういう言葉で呼ぶことは可能なのだろう。でも、それは絶対に、嫌だった。
慰めも励ましもなく、無言で涙を拭ってくれる少女がただありがたくて―――ああ、確かにこの娘は奴が創ったんだろうな、と直感的に理解した。堪らず、少女の小さな頭を、胸に抱く。掻き抱く腕に力を込める。前が見えないだろうに、まだ涙を拭おうとする様子に、笑いが漏れた。依然、涙は止まらなかったけれど。
その日から、私と彼女との生活が始まった。
疲れ知らずの彼女の存在は、私の日々の負担を大幅に低減させてくれた。特に家事の方面においてそれは顕著で、家を出て、帰宅するまでの間に掃除が済んでいる、なんて状況が常態化するのに時間はかからなかった。家の間取りさえ覚えてしまえば、彼女に任せられない仕事は何もなかった。作者が優秀に創ったんだろうな、と考えると、少し感慨深いものがあった。あいつは私がいないとどうしようもないくらい、ズボラな奴だったから。
話し相手としても、彼女は優秀だった。賢く、善良で、優しい。少し幼く、間の抜けたところがあるのは、身体的印象に合わせたものだろうか。作者がそう創ったんだろうな、と考えると、少し嫌な汗が出た。理由はあまり考えない方がよさそうだ、と直感する。
そんな訳で、私にはどうにも瑕疵が見出せないだけに、彼女がなぜ貰われ先で上手くいかなかったのか、という疑問が残った。誰かの気分を害したり、期待はずれだと失望されたりするようなことは、まず有り得まい。ならばどうして、と訝しむ思いが、私の中に住み着いていた。
その後、数ヶ月の期間を経たある日。問いへの答えは、唐突にもたらされた。
夢を視た。あいつと私が夫婦で、少女が娘となった、優しい微睡み。そんな、今となっては成立し得ない夢想の中に、私は一つの啓示を得た。飛び起きた私は、彼女の話を持ちかけてきた依頼主に連絡をとった。
そして、私なりの結論を。
「彼女の欠陥は、全く瑕疵を持たない、という点にあるのだと思います。私の見た限りにおいて、ですが」
「瑕疵を持たない……? それが所有者をして彼女を拒絶せしめた原因であると?」
「ええ。……巷のアンドロイドはもっと機械的で、融通の利かない、非人間的なところがあるでしょう? それに比べて、彼女の感情は人間のソレと遜色がない。人間を不快にさせない、という一点に於いて、完璧であるとすら言えます」
「ええ、僕も初めて見た時には天才の所業だと思ったものです。あれほどまでに人間じみたアンドロイドは他に見たことがない。しかし、それが欠陥である、と。……率直に言って、どういう意味なのか判じかねますが」
「完璧すぎるんです。どこまでも優しく、呆れるほど善良で、淀みなく有能。市販のアンドロイドが非人間的ではあれ、能力については枷を嵌められていないことを思い出してください。もし、彼らの感情面での欠陥が、意図してそう造られた結果であるのだとしたら、どうでしょうか」
「ふむ、つまり……?」
「人間よりも実務能力に優れ、しかし情緒面では劣る、『ロボットらしい』存在。そうじゃないと、見ていて安心することができない。何もかもが完璧な存在は、そこに居るだけで所有者の欠点を―――殊に、その善良さ、従順さに対しては、汚れを―――映してしまう。鏡になってしまうんです」
「―――なるほど。つまり、彼女は人間以上であったから、人間にとっては正視に耐え難い存在となり得たのだ、と。真偽は判りませんが、あり得る話のようには聞こえます。その答えに至ったということは、貴女も?」
「いいえ。……もちろん、私が完璧だから平気だった、なんて話ではありませんけどね。ただ、そういう存在と一緒に過ごすのは、初めてではなかったもので」
「……もしかして、その相手というのは」
「ええ。彼女の製作者は―――あいつは、他人の負の感情がわからない人間で。善性に裏打ちされた良心だけで生きてるような奴でしたよ。……きっと、思いもよらなかったんでしょう。人の傍にいる者が、その善性がゆえに人を居たたまれなくしてしまう、だなんて」
我慢できずに逃げ出すのは、いつも私の方だった。どこまでも透明なあいつの傍に立っていると、自分がひどく汚れている気がして。
ならば、今こうして彼女と過ごせているというのは、私が変質した証なのだろう。それを成長と呼ぶべきか否かはわからない。ただ言えるのは、あいつと過ごせるようになったかもしれない私の傍に、あいつが立つことは、二度とないということだけだ。
顔にハンカチが押し当てられる。出会いと同じ構図だ。心配そうに私を伺う、あいつの映し身。あいつが眺めた世界は、こんなに優しくて、透明なのだと。
そんなことを考えて、私は泣いた。
「この少女型アンドロイドはとある職人の遺作なのだが、貰われた先で拒絶され続けてしまい、困っている。引き取ってもらえないだろうか」
こんな依頼を持ち掛けられた時の私の顔は、きっと傍目には笑えるほどに呆けたものだったろう。
弁解させてもらえば、そもそもアンドロイドというのは、基本的には身の回りの世話を任せるために手に入れるものである。対話の相手や、その―――性処理の相手としての役割を課されることもあるのだろうけど、まあ、ともかく、基本的には。依頼主は昔からの知り合いで、私が人であれ機械であれ、新たなお手伝いを必要としない程度には自律した生活を遅れていると知っているはずだ。だから、この依頼は完全に私の虚を衝くものだった。少しくらい呆けたって、それは仕方がないというものだろう。
なのにどうして、と問うと、渡されたのは一枚の仕様書だった。製作者の欄には、私の幼馴染だった……恋人になることのできなかった男性の名が、あった。幼い頃はずっと一緒で、でも、どうしても先の段階に踏み込めなかった関係性の、その片割れ。その名を見て、ああ、なるほど、と納得する。
顛末はおそらくこうだ、『貰い手のつかないアンドロイド、遺作がゆえに処分するのも忍びない、ならば作者の縁故を頼るというのはどうか』。そりゃあ、私にお鉢が回ってくる訳だ。あいつと親しかった人間なんて、それこそ私くらいのものなんだから。―――思考の内容に誇らしげな色が混ざっていることに気付き、微かな羞恥を憶える。
確認を取ってみれば、正に私が予想した通りの流れだったようで、我ながら奴に関しては観察力が冴え渡るな、と感心する。まさか死後の出来事で実感することになろうとは、夢にも思っていなかったが。
一頻り納得した、その後。
どういう話を経たのかは、なぜだか上の空だったので覚えていないが、彼女を引き取ることになったらしい。今後ともよろしく、と少女に声を掛け、依頼人とは、長く続けられなそうであれば連絡を、との約束を交わした。これで、少女は私のものとなった。……言葉にしてみると、嫌な響きではある。
程なくして、依頼人が帰っていった。見送りを済ませ、自室に戻った、その途端。部屋に待たせておいた、これから私と共に過ごすことになるであろう彼女が、小さな歩幅を刻みながら、私に駆け寄ってきた。
なんだろう、と思う暇もなく。彼女はポケットからハンカチを取り出すと、背伸びをして、私の顔に押し当てた。
「じっとしていてください」
不器用な手つきで、私の顔を拭う。
―――ああ、泣いてるんだ、と気付いたのは、この瞬間だった。
自覚すると、そこには確かに、感情の奔流があった。それを、喪失の悲しみだとか、後悔の念だとか、そういう言葉で呼ぶことは可能なのだろう。でも、それは絶対に、嫌だった。
慰めも励ましもなく、無言で涙を拭ってくれる少女がただありがたくて―――ああ、確かにこの娘は奴が創ったんだろうな、と直感的に理解した。堪らず、少女の小さな頭を、胸に抱く。掻き抱く腕に力を込める。前が見えないだろうに、まだ涙を拭おうとする様子に、笑いが漏れた。依然、涙は止まらなかったけれど。
その日から、私と彼女との生活が始まった。
疲れ知らずの彼女の存在は、私の日々の負担を大幅に低減させてくれた。特に家事の方面においてそれは顕著で、家を出て、帰宅するまでの間に掃除が済んでいる、なんて状況が常態化するのに時間はかからなかった。家の間取りさえ覚えてしまえば、彼女に任せられない仕事は何もなかった。作者が優秀に創ったんだろうな、と考えると、少し感慨深いものがあった。あいつは私がいないとどうしようもないくらい、ズボラな奴だったから。
話し相手としても、彼女は優秀だった。賢く、善良で、優しい。少し幼く、間の抜けたところがあるのは、身体的印象に合わせたものだろうか。作者がそう創ったんだろうな、と考えると、少し嫌な汗が出た。理由はあまり考えない方がよさそうだ、と直感する。
そんな訳で、私にはどうにも瑕疵が見出せないだけに、彼女がなぜ貰われ先で上手くいかなかったのか、という疑問が残った。誰かの気分を害したり、期待はずれだと失望されたりするようなことは、まず有り得まい。ならばどうして、と訝しむ思いが、私の中に住み着いていた。
その後、数ヶ月の期間を経たある日。問いへの答えは、唐突にもたらされた。
夢を視た。あいつと私が夫婦で、少女が娘となった、優しい微睡み。そんな、今となっては成立し得ない夢想の中に、私は一つの啓示を得た。飛び起きた私は、彼女の話を持ちかけてきた依頼主に連絡をとった。
そして、私なりの結論を。
「彼女の欠陥は、全く瑕疵を持たない、という点にあるのだと思います。私の見た限りにおいて、ですが」
「瑕疵を持たない……? それが所有者をして彼女を拒絶せしめた原因であると?」
「ええ。……巷のアンドロイドはもっと機械的で、融通の利かない、非人間的なところがあるでしょう? それに比べて、彼女の感情は人間のソレと遜色がない。人間を不快にさせない、という一点に於いて、完璧であるとすら言えます」
「ええ、僕も初めて見た時には天才の所業だと思ったものです。あれほどまでに人間じみたアンドロイドは他に見たことがない。しかし、それが欠陥である、と。……率直に言って、どういう意味なのか判じかねますが」
「完璧すぎるんです。どこまでも優しく、呆れるほど善良で、淀みなく有能。市販のアンドロイドが非人間的ではあれ、能力については枷を嵌められていないことを思い出してください。もし、彼らの感情面での欠陥が、意図してそう造られた結果であるのだとしたら、どうでしょうか」
「ふむ、つまり……?」
「人間よりも実務能力に優れ、しかし情緒面では劣る、『ロボットらしい』存在。そうじゃないと、見ていて安心することができない。何もかもが完璧な存在は、そこに居るだけで所有者の欠点を―――殊に、その善良さ、従順さに対しては、汚れを―――映してしまう。鏡になってしまうんです」
「―――なるほど。つまり、彼女は人間以上であったから、人間にとっては正視に耐え難い存在となり得たのだ、と。真偽は判りませんが、あり得る話のようには聞こえます。その答えに至ったということは、貴女も?」
「いいえ。……もちろん、私が完璧だから平気だった、なんて話ではありませんけどね。ただ、そういう存在と一緒に過ごすのは、初めてではなかったもので」
「……もしかして、その相手というのは」
「ええ。彼女の製作者は―――あいつは、他人の負の感情がわからない人間で。善性に裏打ちされた良心だけで生きてるような奴でしたよ。……きっと、思いもよらなかったんでしょう。人の傍にいる者が、その善性がゆえに人を居たたまれなくしてしまう、だなんて」
我慢できずに逃げ出すのは、いつも私の方だった。どこまでも透明なあいつの傍に立っていると、自分がひどく汚れている気がして。
ならば、今こうして彼女と過ごせているというのは、私が変質した証なのだろう。それを成長と呼ぶべきか否かはわからない。ただ言えるのは、あいつと過ごせるようになったかもしれない私の傍に、あいつが立つことは、二度とないということだけだ。
顔にハンカチが押し当てられる。出会いと同じ構図だ。心配そうに私を伺う、あいつの映し身。あいつが眺めた世界は、こんなに優しくて、透明なのだと。
そんなことを考えて、私は泣いた。
2011年12月1日木曜日
外に視る檻
第3回SSコンペ(お題:『別れ』)
気づいたのは物心がついた頃だったろうか。わたしには、他のひとには見えないものが見えている。それは絵本に出てくる小人のような姿をしていて、言葉を話すことはないけれど、わたしが話し掛けると頷いたり、微笑んだりといった反応を返してくれる存在だった。自我のめばえよりも早く、ともにある他者。ごく自然に、彼はわたしの話し相手になった。
傍からは見えない存在と言葉を交わしているように見えたからか、幼い頃にはずいぶん気味悪がられていた。友達の集団から軽く疎外されていたような覚えもある。成長してからは過去の奇行も夢見がちな少女の戯れと見なして貰えるようになったのだけれど、にも関わらず、高校生となった今でもわたしは人付き合いの多い方ではない。「彼」に向かって言葉を投げかける、一方通行の対話に慣らされてしまったのか。双方向の対話というものに億劫さを感じていたわたしは、当然の帰結として、対話を不得手とするに至った。そんな息苦しさから逃げるために、ずっと独りでいた。
転機が訪れたのは、ふと思い立って学校の図書室に訪れた時のことだった。
本を借りる際に応対してくれた、図書委員の男子生徒の微笑みがなんとなく忘れられない。そう思ったのが始まりだ。
その日以来、何かにつけて図書室へ行くようになった。気付けば、彼の姿を視線で追っている自分がいた。本に没入していたはずが、ふとした瞬間に紙面から意識が逸れて、図書委員のいるカウンターのあたりをさまよっていることが頻繁にあった。
そんな、まさか、と思う気持ちはあった。一方で、こういうこともあるだろう、と納得する自分もいた。他者に慣れていない自分のことだ、少しのきっかけがあれば簡単になびくのも無理からぬこと―――と自虐してみても、胸に生まれた衝動を消すことは叶わなかった。
認めよう、わたしは恋をしたのだ。親兄弟とすらうまく会話できない、相手の善意と社交性に阿ることなしには友人関係を築くことすら叶わないわたしが、生まれて初めて、一足飛びに恋をした。
―――したのだが、まあ、だからどうということもなく。
何かする行動力も、力を借りる知り合いも持ち合わせていないわたしは、毎日のように「彼」に相談を―――相談という名の言い訳の羅列を聞かせ、返ってくる微笑みや首肯に何となく煮え切らないものを感じつつ、特に何もしないまま時間を空費するのだった。
そんなふうに胸の裡の想いを弄んでいた、ある日。
その日の当番は例の彼で、どうも貸し出しの仕事が連続しているらしかった。バックヤードに引っ込んでいないのは好都合だ。カウンターに釘付けになっていた彼を眺めながら、いつもこうだったらいいのに、などと益体もないことを考えていると、すっ、とわたしの視界が翳った。誰かが傍に来たのだ、と気付く。
「あの、兄さんに何か?」
少し低めの、優しげな声。降ってきた軌跡を辿るように視線を上げると、背の高い女子生徒がわたしを見下ろしていた。内心の驚きを極力抑えつつ、言葉を紡ぐ。
「あ、いや、別にその……あの、兄さんというのは一体?」
当然のように、驚きなど抑えきれているはずもなかった。いや、驚いていなければどもらず言えた、と主張するのもいささか自信過剰な物言いだろうか。これがわたしだ、と主張せんばかりの惨憺たる応答。顔から火が出そうだった。消えてしまいたい。
内心で自虐の限りを尽くすわたしに対して、件の女子は少しも嫌そうな顔を見せることなく、
「いつもご覧になってるあの男の人、私の兄さんなんです。その、ここのところずっと見てらしたように思いまして」
とんでもない爆弾を投下してくれた。邪気なく放たれた言葉がいよいよわたしの心を抉ってくる。頬が熱くなるのを感じた。思考が定まらない。
「あ―――いえ、勘違いだったらごめんなさい。責めようとか馬鹿にしようとかいうんじゃないんです。ただ、私以外に兄さんのことを見てる人がいるんだ、って思うと嬉しくてつい」
固まってしまったわたしを見てか、少々あわてたような素振りを見せつつ早口に彼女は続けた。わたしはといえば、言われた内容を満足に飲み込むこともできず、ただひたすらに黙りこくるしかない。そんなわたしに対して些かの侮蔑すらも見せず、彼女は嬉しげに、こんな提案をした。
「あの、図書室で喋るのもなんですし、宜しければ放課後にでもお喋りしませんか?」
ひとつ、頷いた。更に投げかけられたいくつかの質問にも、同様に首肯を繰り返した。あまりに想像の埒外な展開であったため詳しくは覚えていないが、多少の問答の末、わたしは彼女と一緒に下校する流れとなったらしい。そこから昼休みが終わって、放課後に至るまでの時間もまた、記憶から抜けている。あまりの出来事に、脳の処理が追いつかなかったのだろうか。ふわふわした心地のまま、気づけば放課後になっていた。
帰路、わたしたちはいろいろなことを話した。わたしにとっては、こんなに喋るのは生まれて初めてだ、と比喩でもなんでもなく言えてしまうくらいの会話量だった。
内容を要約すると、こうだ。彼女は彼のことを自慢の兄だと思っているが、周囲の人は誰も彼の魅力を理解してくれないのだという。そのことで鬱屈としたものを溜め込んでいるところに、彼を注視する女子を発見して、思わず声を掛けてしまった―――というのが、ことの顛末。その行動論理を見れば解る通り、思った以上に豪快な人であるらしく、わたしが彼に恋していると知るや否や、当初抱いていた遠慮がちな彼女の印象もどこかへ吹き飛んでしまった。
結果、会話の内容も、
「―――だから私、嬉しくって。あの、兄さんのどこを良いと思ったのか、宜しければ聞かせてもらえません?」
「ぇっと……正直なところ、自分でもよくわからないんですが。ただ、他の人への振る舞いが優しかったから、かなあ……とか……まあ」
「振る舞いの優しさ……ええ、正にそうです。そこにお気づきになられるとは、お目が高い! そも、兄さんの長所というのは―――」
―――といったふうに、惚気とも身内自慢ともつかないものばかりだった。初印象を裏切られたような気もしていたが、決して不快ではなく。むしろ、しどろもどろになりがちなわたしを上手に導いてくれる彼女と喋るのは、わたしにとってはおそらく初めての、息苦しくない他者性との対話だったように思う。少々の疲れは感じたものの、わたしは極めて快く、他人と会話することができた。
その日以来、わたしたちはたびたび帰路を同じくした。彼の攻略、というのを目標に掲げたサポート体制の始まりだ。作戦会議と称しては喫茶店に入り浸り、装備の調達と称しては服を買いに街へ繰り出す。人と喋ることは苦手なままだったけれど、友人と共に過ごす日々は悪くなかった。
ただ、ひとつだけ不安なこともあった。いつも視界の隅にいた「彼」、その姿をしばしば見失うようになっていたのだ。最初は気のせいかと思っていたが、数週間、数ヶ月と時が経つにつれ、その頻度は増えていった。悲しみはあったが、それは自分でも驚くほどに弱いものだった。長年傍にいてくれた存在、その喪失の予感を得てもなお平静でいられたのは、新たに得た友人の存在がゆえにだろうか。そんなにも、わたしは薄情なものだったのか。そう思うと、自分の小ささに嫌になった。
更に数カ月が経ち、何度目かの作戦会議を経て帰宅した、ある日。もうその頃には「彼」が見えない時間の方が圧倒的に長くなっていたのだが、この日は昔のように鮮明に、彼の姿を捉えることができた。
その様子を見て、ああ、消えるんだな、と直感した。
気の利いたことを言える自信はなかったが、最後くらいは、と思った。或いは、蔑ろにしてきたことへの後ろめたさに突き動かされたのか。判然としないまま、言葉が漏れた。
「ずっと話し相手になってくれて、ありがとう。どのくらい役に立ったのかは判らないけど……今のわたしは幸せだよ」
微笑みだけが返ってくる、ともすれば空虚な受け答え。だとしても、わたしは続ける。いつだって、そこに意味を見出してきたんだから。最後だって、かくありたい。
「実際、君がいてくれなきゃ一人でうまく過ごせてたのかも怪しいものだし。ここまで来れたのは君のおかげ」
返答はない。いつだってそうだった。いつだって「彼」は、黙って話を聞いてくれていた。全て解っている、と言いたげな微笑みと共に。
……そう思った瞬間、わたしの中に蟠っていたものたちが、符号した。
「ああ―――なんだ、そういうことか」
他者性との触れ合いを避けてきたわたし。「彼」が決してわたしの言葉を否定しなかったこと。にも関わらず、わたしが「彼」の反応に不満足な思いを抱いた記憶。
望む反応も、望まぬ反応も、本当に、心の底では望んでいた反応も―――的確に返していた、物言わぬ聞き手。
「鏡、だったんだ」
くるりと輪を描いた、自我の壁。こじ開けて、外界を視た。
その美しさに魅了されて―――もっと、もっとと広げた挙句、鏡は割れた。必要な犠牲だった、とは言える。通過儀礼だった、とは言える。そもそもがただの鏡映、他者性を宿さないそれとの別れに何を、とも言えるだろうけれど。
「―――今までありがとう。さよなら」
今しばらくは、この喪失を感じていたい、と思った。
しっかり悲しんで、立ち直ったら、綺麗な世界を楽しむのだ。「彼」と同じ、この両眼で。
気づいたのは物心がついた頃だったろうか。わたしには、他のひとには見えないものが見えている。それは絵本に出てくる小人のような姿をしていて、言葉を話すことはないけれど、わたしが話し掛けると頷いたり、微笑んだりといった反応を返してくれる存在だった。自我のめばえよりも早く、ともにある他者。ごく自然に、彼はわたしの話し相手になった。
傍からは見えない存在と言葉を交わしているように見えたからか、幼い頃にはずいぶん気味悪がられていた。友達の集団から軽く疎外されていたような覚えもある。成長してからは過去の奇行も夢見がちな少女の戯れと見なして貰えるようになったのだけれど、にも関わらず、高校生となった今でもわたしは人付き合いの多い方ではない。「彼」に向かって言葉を投げかける、一方通行の対話に慣らされてしまったのか。双方向の対話というものに億劫さを感じていたわたしは、当然の帰結として、対話を不得手とするに至った。そんな息苦しさから逃げるために、ずっと独りでいた。
転機が訪れたのは、ふと思い立って学校の図書室に訪れた時のことだった。
本を借りる際に応対してくれた、図書委員の男子生徒の微笑みがなんとなく忘れられない。そう思ったのが始まりだ。
その日以来、何かにつけて図書室へ行くようになった。気付けば、彼の姿を視線で追っている自分がいた。本に没入していたはずが、ふとした瞬間に紙面から意識が逸れて、図書委員のいるカウンターのあたりをさまよっていることが頻繁にあった。
そんな、まさか、と思う気持ちはあった。一方で、こういうこともあるだろう、と納得する自分もいた。他者に慣れていない自分のことだ、少しのきっかけがあれば簡単になびくのも無理からぬこと―――と自虐してみても、胸に生まれた衝動を消すことは叶わなかった。
認めよう、わたしは恋をしたのだ。親兄弟とすらうまく会話できない、相手の善意と社交性に阿ることなしには友人関係を築くことすら叶わないわたしが、生まれて初めて、一足飛びに恋をした。
―――したのだが、まあ、だからどうということもなく。
何かする行動力も、力を借りる知り合いも持ち合わせていないわたしは、毎日のように「彼」に相談を―――相談という名の言い訳の羅列を聞かせ、返ってくる微笑みや首肯に何となく煮え切らないものを感じつつ、特に何もしないまま時間を空費するのだった。
そんなふうに胸の裡の想いを弄んでいた、ある日。
その日の当番は例の彼で、どうも貸し出しの仕事が連続しているらしかった。バックヤードに引っ込んでいないのは好都合だ。カウンターに釘付けになっていた彼を眺めながら、いつもこうだったらいいのに、などと益体もないことを考えていると、すっ、とわたしの視界が翳った。誰かが傍に来たのだ、と気付く。
「あの、兄さんに何か?」
少し低めの、優しげな声。降ってきた軌跡を辿るように視線を上げると、背の高い女子生徒がわたしを見下ろしていた。内心の驚きを極力抑えつつ、言葉を紡ぐ。
「あ、いや、別にその……あの、兄さんというのは一体?」
当然のように、驚きなど抑えきれているはずもなかった。いや、驚いていなければどもらず言えた、と主張するのもいささか自信過剰な物言いだろうか。これがわたしだ、と主張せんばかりの惨憺たる応答。顔から火が出そうだった。消えてしまいたい。
内心で自虐の限りを尽くすわたしに対して、件の女子は少しも嫌そうな顔を見せることなく、
「いつもご覧になってるあの男の人、私の兄さんなんです。その、ここのところずっと見てらしたように思いまして」
とんでもない爆弾を投下してくれた。邪気なく放たれた言葉がいよいよわたしの心を抉ってくる。頬が熱くなるのを感じた。思考が定まらない。
「あ―――いえ、勘違いだったらごめんなさい。責めようとか馬鹿にしようとかいうんじゃないんです。ただ、私以外に兄さんのことを見てる人がいるんだ、って思うと嬉しくてつい」
固まってしまったわたしを見てか、少々あわてたような素振りを見せつつ早口に彼女は続けた。わたしはといえば、言われた内容を満足に飲み込むこともできず、ただひたすらに黙りこくるしかない。そんなわたしに対して些かの侮蔑すらも見せず、彼女は嬉しげに、こんな提案をした。
「あの、図書室で喋るのもなんですし、宜しければ放課後にでもお喋りしませんか?」
ひとつ、頷いた。更に投げかけられたいくつかの質問にも、同様に首肯を繰り返した。あまりに想像の埒外な展開であったため詳しくは覚えていないが、多少の問答の末、わたしは彼女と一緒に下校する流れとなったらしい。そこから昼休みが終わって、放課後に至るまでの時間もまた、記憶から抜けている。あまりの出来事に、脳の処理が追いつかなかったのだろうか。ふわふわした心地のまま、気づけば放課後になっていた。
帰路、わたしたちはいろいろなことを話した。わたしにとっては、こんなに喋るのは生まれて初めてだ、と比喩でもなんでもなく言えてしまうくらいの会話量だった。
内容を要約すると、こうだ。彼女は彼のことを自慢の兄だと思っているが、周囲の人は誰も彼の魅力を理解してくれないのだという。そのことで鬱屈としたものを溜め込んでいるところに、彼を注視する女子を発見して、思わず声を掛けてしまった―――というのが、ことの顛末。その行動論理を見れば解る通り、思った以上に豪快な人であるらしく、わたしが彼に恋していると知るや否や、当初抱いていた遠慮がちな彼女の印象もどこかへ吹き飛んでしまった。
結果、会話の内容も、
「―――だから私、嬉しくって。あの、兄さんのどこを良いと思ったのか、宜しければ聞かせてもらえません?」
「ぇっと……正直なところ、自分でもよくわからないんですが。ただ、他の人への振る舞いが優しかったから、かなあ……とか……まあ」
「振る舞いの優しさ……ええ、正にそうです。そこにお気づきになられるとは、お目が高い! そも、兄さんの長所というのは―――」
―――といったふうに、惚気とも身内自慢ともつかないものばかりだった。初印象を裏切られたような気もしていたが、決して不快ではなく。むしろ、しどろもどろになりがちなわたしを上手に導いてくれる彼女と喋るのは、わたしにとってはおそらく初めての、息苦しくない他者性との対話だったように思う。少々の疲れは感じたものの、わたしは極めて快く、他人と会話することができた。
その日以来、わたしたちはたびたび帰路を同じくした。彼の攻略、というのを目標に掲げたサポート体制の始まりだ。作戦会議と称しては喫茶店に入り浸り、装備の調達と称しては服を買いに街へ繰り出す。人と喋ることは苦手なままだったけれど、友人と共に過ごす日々は悪くなかった。
ただ、ひとつだけ不安なこともあった。いつも視界の隅にいた「彼」、その姿をしばしば見失うようになっていたのだ。最初は気のせいかと思っていたが、数週間、数ヶ月と時が経つにつれ、その頻度は増えていった。悲しみはあったが、それは自分でも驚くほどに弱いものだった。長年傍にいてくれた存在、その喪失の予感を得てもなお平静でいられたのは、新たに得た友人の存在がゆえにだろうか。そんなにも、わたしは薄情なものだったのか。そう思うと、自分の小ささに嫌になった。
更に数カ月が経ち、何度目かの作戦会議を経て帰宅した、ある日。もうその頃には「彼」が見えない時間の方が圧倒的に長くなっていたのだが、この日は昔のように鮮明に、彼の姿を捉えることができた。
その様子を見て、ああ、消えるんだな、と直感した。
気の利いたことを言える自信はなかったが、最後くらいは、と思った。或いは、蔑ろにしてきたことへの後ろめたさに突き動かされたのか。判然としないまま、言葉が漏れた。
「ずっと話し相手になってくれて、ありがとう。どのくらい役に立ったのかは判らないけど……今のわたしは幸せだよ」
微笑みだけが返ってくる、ともすれば空虚な受け答え。だとしても、わたしは続ける。いつだって、そこに意味を見出してきたんだから。最後だって、かくありたい。
「実際、君がいてくれなきゃ一人でうまく過ごせてたのかも怪しいものだし。ここまで来れたのは君のおかげ」
返答はない。いつだってそうだった。いつだって「彼」は、黙って話を聞いてくれていた。全て解っている、と言いたげな微笑みと共に。
……そう思った瞬間、わたしの中に蟠っていたものたちが、符号した。
「ああ―――なんだ、そういうことか」
他者性との触れ合いを避けてきたわたし。「彼」が決してわたしの言葉を否定しなかったこと。にも関わらず、わたしが「彼」の反応に不満足な思いを抱いた記憶。
望む反応も、望まぬ反応も、本当に、心の底では望んでいた反応も―――的確に返していた、物言わぬ聞き手。
「鏡、だったんだ」
くるりと輪を描いた、自我の壁。こじ開けて、外界を視た。
その美しさに魅了されて―――もっと、もっとと広げた挙句、鏡は割れた。必要な犠牲だった、とは言える。通過儀礼だった、とは言える。そもそもがただの鏡映、他者性を宿さないそれとの別れに何を、とも言えるだろうけれど。
「―――今までありがとう。さよなら」
今しばらくは、この喪失を感じていたい、と思った。
しっかり悲しんで、立ち直ったら、綺麗な世界を楽しむのだ。「彼」と同じ、この両眼で。
2011年11月30日水曜日
『せかいにひとつだけの』
「なんでも願いを叶えてくれるんだね?」
「そうね、わたしの自由意志で拒否したくならない範囲でなら、なんでも。『自害しろ』とか、そういうのはお断りよ」
「なら、僕を世界で並ぶもののない作家にしてくれないか」
「いいわよ」
目を輝かす少年に、少女は軽く微笑みを向けると、挨拶でもするように片手を挙げ、すぐにすとんと落とした。それだけで充分だった。
その瞬間、少年を除いた人は絶えた。
「これで、あなたの物語を外から読む者はもういない。たった一つの物語、異本も認めぬ物語―――それが、あなた」
告げる言葉は、どこまでも優しい響き。
「書きなさい。書くために書きなさい。生かしてあげる。書くために必要なことだけは、何でもしてあげる」
呪詛にも似た祝福を聞いて、少年の顔がほころんだ。
「そうね、わたしの自由意志で拒否したくならない範囲でなら、なんでも。『自害しろ』とか、そういうのはお断りよ」
「なら、僕を世界で並ぶもののない作家にしてくれないか」
「いいわよ」
目を輝かす少年に、少女は軽く微笑みを向けると、挨拶でもするように片手を挙げ、すぐにすとんと落とした。それだけで充分だった。
その瞬間、少年を除いた人は絶えた。
「これで、あなたの物語を外から読む者はもういない。たった一つの物語、異本も認めぬ物語―――それが、あなた」
告げる言葉は、どこまでも優しい響き。
「書きなさい。書くために書きなさい。生かしてあげる。書くために必要なことだけは、何でもしてあげる」
呪詛にも似た祝福を聞いて、少年の顔がほころんだ。
2011年11月21日月曜日
『抑止の守護者』
第2回SSコンペ(お題:『幼馴染』)
時代の流れの中で危険性が取り沙汰され、常ならば人のいない場と化したそこでは、誰かの存在がすなわち非日常の証左となる。
今しも相対する一組の男女、その間に横溢する空気も、和やかな歓談を予期させるものでは決してない。
無言で見つめ合うこと、数分。女の方が、先に口火を切った。
「―――私たちさあ、いつまで幼馴染でいればいいの?」
極めて平坦な声色。
そこに含まれる感情は、哀切か、諦念か、あるいはまた別の何かか。
いずれにせよ、問い掛けには縋るような響きが乗っていた。
しかし、
「ずっと、だ」
言外に意味するものを汲み取って、それを真っ向から切り捨てでもするように、男は告げる。
女の温度が傍目にも明らかなほどに下降していく。
感情の急激な冷却は、爆発の前哨にも似ていた。
「……なんで? ずっと傍にいたんだよ。もっと近づきたいと思うのって、そんなに悪いことなの?」
縋るような響きは既に失せている。
詰問、或いは確認を目的とした、攻撃。
「互いにとって不幸にしかならないなら、俺は認めない」
だが、それすらも意に介さず。
苦渋の色を滲ますでも、或いは嘲笑の雰囲気を漂わすでもない、事務的な返答だけを投げて寄越した。
その平静さが、火に油を注いでいく。
「あんたが認めようが認めまいが関係ない。……一方的に、踏み越えるよ」
侵略する意思の表明。それは、後戻りしない、という決意の表明でもある。
或いは、痛みのない結末を選ばない、選ばせない、という最後通牒でもあった。
「やってみろ。出来るものならな」
どこまでも手応えを返さぬ男に、しかし女は激昂するでもなく―――微笑すら浮かべ、告げる。
「ええ。幼馴染で終わらせなんかしない。彼は(・・)わたしのものよ」
仏頂面を保ってきた男が、ここにきて初めて、表情に変化を見せた。
口の端を少しだけ吊り上げた、獰猛な笑み。
「ほざけよ。そうはさせない。あいつは一生、お前みたいな女に娶られはしない」
「―――――――――」
「―――――――――」
沈黙がその密度を上げる。
緊張感が増す。
目には見えない何かが、きりきりと引き絞られていく感覚。
一触即発の空気。
……だが、
「―――っていうか根本的な疑問なんだけど、何であんたが障害として立ち塞がるワケ?」
心底不思議だ、とでも言いたげな表情で、言った。
ぴん、と張り詰めていた空気は、完全に霧散した。
「わたしと彼がどうなろうとそれは当人同士の問題であって、あんたが間に入ってくる義理なんてなくない?」
「いや、ある」
「何? 言ってみなさいよ」
うむ、と頷き、
「みすみす淫売に親友を渡すことなど受け入れがたい。あいつにはもっと相応しい女性がいるはずだ」
しみじみと語る。
その貫禄、もはや父親のそれであった。
「淫売っつった? このムッツリが」
「じゃあ聞くが、恋人になったとして何とする?」
「すぐにでも泣き叫ぶまで犯す」
いい笑顔で。
朗らかに。
「死ね」
死んだ目で。
吐き捨てるように。
「彼、逆レイプと順レイプとならどっちが好みなのかしら」
そばとうどんの好みを聞くがごとき気安さであった。
「その言動こそがお前を野放しにできない理由なのだと知れ」
「いいじゃない、健全なだけだと倦怠期が来るのも早いって聞くし」
「お前が健全であった瞬間を一度たりとも観測できた覚えがないんだがな、俺は」
「……ベッドの中では貞淑なの。言わせないでよムッツリ」
「さっき泣き叫ぶまで犯してやりたいとか言ってたのはどこの誰だ?」
「え? 何でベッドの中で犯す前提なの?」
「ああ、うん。お前と会話できると思ってた俺が馬鹿だったな」
双方ともにうんざりとした。
なぜ自分はこんな馬鹿を相手にしているのだろう、という疑問だけがこの場で共有された唯一のものである。
そのまま、沈黙が続き、数分が経過した頃。
表情に喜色を浮かべた女が、満面の笑みで言った。
「……あ、ひょっとしてわたしのことが好きだから邪魔しちゃう、複雑な男心、とか?」
刹那、男の呼吸が止まる。
その様を見て、からかいの色に染まっていた女が、う、と呻いた。
表情が羞恥に染まる。そう長くもない時間だというのに、それと判るほど、その頬に紅みを帯びていく。
やがて、数瞬の沈黙の果てに、
「―――頭、大丈夫か?」
心底不思議だ、とでも言いたげな表情で、言った。
甘やかに漂っていた空気に、亀裂が走る。
「……屋上へ行こうか?」
もしかして、と一瞬でも思った自分への苛立ち。そして恥ずかしさ。
そして、一握りのよくわからない感情。
混ざった結果は、ドスの利いた脅し文句だった。
「ここが屋上だ」
「なら、手間が省けていいことね」
「ああ、全くだな」
言いながら、ファイティングポーズ。
―――彼らの日常は、まだまだ続く。
時代の流れの中で危険性が取り沙汰され、常ならば人のいない場と化したそこでは、誰かの存在がすなわち非日常の証左となる。
今しも相対する一組の男女、その間に横溢する空気も、和やかな歓談を予期させるものでは決してない。
無言で見つめ合うこと、数分。女の方が、先に口火を切った。
「―――私たちさあ、いつまで幼馴染でいればいいの?」
極めて平坦な声色。
そこに含まれる感情は、哀切か、諦念か、あるいはまた別の何かか。
いずれにせよ、問い掛けには縋るような響きが乗っていた。
しかし、
「ずっと、だ」
言外に意味するものを汲み取って、それを真っ向から切り捨てでもするように、男は告げる。
女の温度が傍目にも明らかなほどに下降していく。
感情の急激な冷却は、爆発の前哨にも似ていた。
「……なんで? ずっと傍にいたんだよ。もっと近づきたいと思うのって、そんなに悪いことなの?」
縋るような響きは既に失せている。
詰問、或いは確認を目的とした、攻撃。
「互いにとって不幸にしかならないなら、俺は認めない」
だが、それすらも意に介さず。
苦渋の色を滲ますでも、或いは嘲笑の雰囲気を漂わすでもない、事務的な返答だけを投げて寄越した。
その平静さが、火に油を注いでいく。
「あんたが認めようが認めまいが関係ない。……一方的に、踏み越えるよ」
侵略する意思の表明。それは、後戻りしない、という決意の表明でもある。
或いは、痛みのない結末を選ばない、選ばせない、という最後通牒でもあった。
「やってみろ。出来るものならな」
どこまでも手応えを返さぬ男に、しかし女は激昂するでもなく―――微笑すら浮かべ、告げる。
「ええ。幼馴染で終わらせなんかしない。彼は(・・)わたしのものよ」
仏頂面を保ってきた男が、ここにきて初めて、表情に変化を見せた。
口の端を少しだけ吊り上げた、獰猛な笑み。
「ほざけよ。そうはさせない。あいつは一生、お前みたいな女に娶られはしない」
「―――――――――」
「―――――――――」
沈黙がその密度を上げる。
緊張感が増す。
目には見えない何かが、きりきりと引き絞られていく感覚。
一触即発の空気。
……だが、
「―――っていうか根本的な疑問なんだけど、何であんたが障害として立ち塞がるワケ?」
心底不思議だ、とでも言いたげな表情で、言った。
ぴん、と張り詰めていた空気は、完全に霧散した。
「わたしと彼がどうなろうとそれは当人同士の問題であって、あんたが間に入ってくる義理なんてなくない?」
「いや、ある」
「何? 言ってみなさいよ」
うむ、と頷き、
「みすみす淫売に親友を渡すことなど受け入れがたい。あいつにはもっと相応しい女性がいるはずだ」
しみじみと語る。
その貫禄、もはや父親のそれであった。
「淫売っつった? このムッツリが」
「じゃあ聞くが、恋人になったとして何とする?」
「すぐにでも泣き叫ぶまで犯す」
いい笑顔で。
朗らかに。
「死ね」
死んだ目で。
吐き捨てるように。
「彼、逆レイプと順レイプとならどっちが好みなのかしら」
そばとうどんの好みを聞くがごとき気安さであった。
「その言動こそがお前を野放しにできない理由なのだと知れ」
「いいじゃない、健全なだけだと倦怠期が来るのも早いって聞くし」
「お前が健全であった瞬間を一度たりとも観測できた覚えがないんだがな、俺は」
「……ベッドの中では貞淑なの。言わせないでよムッツリ」
「さっき泣き叫ぶまで犯してやりたいとか言ってたのはどこの誰だ?」
「え? 何でベッドの中で犯す前提なの?」
「ああ、うん。お前と会話できると思ってた俺が馬鹿だったな」
双方ともにうんざりとした。
なぜ自分はこんな馬鹿を相手にしているのだろう、という疑問だけがこの場で共有された唯一のものである。
そのまま、沈黙が続き、数分が経過した頃。
表情に喜色を浮かべた女が、満面の笑みで言った。
「……あ、ひょっとしてわたしのことが好きだから邪魔しちゃう、複雑な男心、とか?」
刹那、男の呼吸が止まる。
その様を見て、からかいの色に染まっていた女が、う、と呻いた。
表情が羞恥に染まる。そう長くもない時間だというのに、それと判るほど、その頬に紅みを帯びていく。
やがて、数瞬の沈黙の果てに、
「―――頭、大丈夫か?」
心底不思議だ、とでも言いたげな表情で、言った。
甘やかに漂っていた空気に、亀裂が走る。
「……屋上へ行こうか?」
もしかして、と一瞬でも思った自分への苛立ち。そして恥ずかしさ。
そして、一握りのよくわからない感情。
混ざった結果は、ドスの利いた脅し文句だった。
「ここが屋上だ」
「なら、手間が省けていいことね」
「ああ、全くだな」
言いながら、ファイティングポーズ。
―――彼らの日常は、まだまだ続く。
2011年11月14日月曜日
『強く、儚く』
第1回SSコンペ(お題:『病弱な姉/妹』)
「入るよ。姉さん、具合はどう?」
降ってきた声に、夢と現の境を茫洋と漂っていた意識が焦点を結ぶ。
導かれるまま視線を上げると、洗面器と手拭いを持った弟の姿が見えた。
ああ、看病に来たんだな、と胡乱な頭で理解する。
せっかくの来訪だ、手を挙げて応えようかとも思ったが―――存外、身体が重かった。
仕方なく、「大丈夫よ」とだけ口にした。
……瞬間、その、己の声の儚さに驚く。
察するものがあったのだろう、彼は眉根を寄せると、
「……いつも通りとはいえ、今回は随分と長引くね。風邪と侮らない方がいい、ってお医者さんも仰ってたけど」
返されたその言葉が、随分と深刻に響いて聞こえたものだから、ばつが悪い。
今更、本当に大丈夫だから、と念を押したところで逆効果だろう。
どうあっても気を遣わせる羽目になるとは、つくづく自身の脆弱さが厭になる。
「……いたって快調だけどね。ただ、寝起きだから、さ」
「ああ、それでか。なら安心なのかな」
負け惜しみ気味に放った言葉も、丁重に切って落とされた。気遣いのおまけ付きで。
ああ、これはもう黙っておいた方が良さそうだ、と観念する。何を言ったところで意味を成すまい。
そう思い、彼から視線を外してしばし放心していると、程なくして、曖昧さが意識を侵食してくるのを感じた。
これは、また寝てしまいそうだな―――と、危惧したそのタイミングで、額に冷たい手拭いが乗せられる。
霧散しかけていた意識が、輪郭を取り戻す。
表情で知れたか、純粋な勘か。いずれにせよ、絶妙な機先の察知だった。
視界の隅に、小さく微笑む弟の顔が、熱にうかされ、揺れて見えた。
―――その様を見て、ふと、魔が差した。
「ねえ」
洗面器を片そうとしていた彼が、首だけでこちらを向く。
視線が絡むのを待ってから、わたしは両手を広げて、おいで、と告げた。
彼は何を問い返すこともなく、小さく頷くと、私の上に身体を重ねた。
重さが掛からないようにと、たすきがけに手をついて。
少し浮いて、わたしの身体を斜めに分割する、彼の身体。
その身体を、抱き寄せた。
ゆっくりと、腕に力を入れていく。
華奢に見えて、その実わたしよりも固く締まった骨格が、わずかに緩むのを感じた。
「どうしたの?」
彼の涼しげな声に、動揺の色は読み取れなかった。
抱きしめ返すでもなく、抗うでもなく、抱擁されたまま、わたしの真意を問うてくる。
この反応に、悔しいなあと思うわたしがいて。
でも一方で、ああ、これがわたしの弟なんだなあ、と静かに満足するわたしも、確かにいた。
「温度。移してあげようと思って」
適当に放った言葉。
なにそれ、と彼が笑った。わかんない、とわたしも笑った。
……でもそれは、正しく状況を記述する言葉ではあったのだろう。
わたしの熱が、彼の身体に移譲されていく。触れ合った部分を起点に、染み入るように。
接点で等しく保たれた温度が、二人を繋ぐよすがとなって、あやふやな絆を確かなものと誤認させる。
―――だめだ。この欺瞞は、余りにも、都合が良すぎる。
衝動が、訳のわからない焦燥感と、自棄じみた昏い想いを喚ぶ。
努めて外に出さぬよう、嚥下して。
……呑みきれなかったものが、胸中に蟠った。
「看病するの、面倒でしょう?」
零れるように、言葉が生まれる。
同時に、意識が急速にぼやけていくのを感じた。
無意識に紡がれたその言葉が、本心なのかどうか。
熱に染まった頭には、もう判らない。
そんなあやふやな言葉に、彼は初めてわたしを抱きしめ返して、
「面倒だ、って言ったら楽になるのかな。なら、言うよ」
―――ああ、この弟は、なんだってこう、優しい/厳しいのか。
尊敬と嫉妬が綯い交ぜになった混沌の中、ゆっくりと意識が剥離していく。
「あんた、強いわ」
紡いだはずの言葉が、適切に出力されているかすら、自信がない。
ただ、
「強いひとの弟だからね。強くならないと、務まらない」
途絶の間際に聞いた、その言葉が。
どこまでも優しく響いたことを、憶えている。
「入るよ。姉さん、具合はどう?」
降ってきた声に、夢と現の境を茫洋と漂っていた意識が焦点を結ぶ。
導かれるまま視線を上げると、洗面器と手拭いを持った弟の姿が見えた。
ああ、看病に来たんだな、と胡乱な頭で理解する。
せっかくの来訪だ、手を挙げて応えようかとも思ったが―――存外、身体が重かった。
仕方なく、「大丈夫よ」とだけ口にした。
……瞬間、その、己の声の儚さに驚く。
察するものがあったのだろう、彼は眉根を寄せると、
「……いつも通りとはいえ、今回は随分と長引くね。風邪と侮らない方がいい、ってお医者さんも仰ってたけど」
返されたその言葉が、随分と深刻に響いて聞こえたものだから、ばつが悪い。
今更、本当に大丈夫だから、と念を押したところで逆効果だろう。
どうあっても気を遣わせる羽目になるとは、つくづく自身の脆弱さが厭になる。
「……いたって快調だけどね。ただ、寝起きだから、さ」
「ああ、それでか。なら安心なのかな」
負け惜しみ気味に放った言葉も、丁重に切って落とされた。気遣いのおまけ付きで。
ああ、これはもう黙っておいた方が良さそうだ、と観念する。何を言ったところで意味を成すまい。
そう思い、彼から視線を外してしばし放心していると、程なくして、曖昧さが意識を侵食してくるのを感じた。
これは、また寝てしまいそうだな―――と、危惧したそのタイミングで、額に冷たい手拭いが乗せられる。
霧散しかけていた意識が、輪郭を取り戻す。
表情で知れたか、純粋な勘か。いずれにせよ、絶妙な機先の察知だった。
視界の隅に、小さく微笑む弟の顔が、熱にうかされ、揺れて見えた。
―――その様を見て、ふと、魔が差した。
「ねえ」
洗面器を片そうとしていた彼が、首だけでこちらを向く。
視線が絡むのを待ってから、わたしは両手を広げて、おいで、と告げた。
彼は何を問い返すこともなく、小さく頷くと、私の上に身体を重ねた。
重さが掛からないようにと、たすきがけに手をついて。
少し浮いて、わたしの身体を斜めに分割する、彼の身体。
その身体を、抱き寄せた。
ゆっくりと、腕に力を入れていく。
華奢に見えて、その実わたしよりも固く締まった骨格が、わずかに緩むのを感じた。
「どうしたの?」
彼の涼しげな声に、動揺の色は読み取れなかった。
抱きしめ返すでもなく、抗うでもなく、抱擁されたまま、わたしの真意を問うてくる。
この反応に、悔しいなあと思うわたしがいて。
でも一方で、ああ、これがわたしの弟なんだなあ、と静かに満足するわたしも、確かにいた。
「温度。移してあげようと思って」
適当に放った言葉。
なにそれ、と彼が笑った。わかんない、とわたしも笑った。
……でもそれは、正しく状況を記述する言葉ではあったのだろう。
わたしの熱が、彼の身体に移譲されていく。触れ合った部分を起点に、染み入るように。
接点で等しく保たれた温度が、二人を繋ぐよすがとなって、あやふやな絆を確かなものと誤認させる。
―――だめだ。この欺瞞は、余りにも、都合が良すぎる。
衝動が、訳のわからない焦燥感と、自棄じみた昏い想いを喚ぶ。
努めて外に出さぬよう、嚥下して。
……呑みきれなかったものが、胸中に蟠った。
「看病するの、面倒でしょう?」
零れるように、言葉が生まれる。
同時に、意識が急速にぼやけていくのを感じた。
無意識に紡がれたその言葉が、本心なのかどうか。
熱に染まった頭には、もう判らない。
そんなあやふやな言葉に、彼は初めてわたしを抱きしめ返して、
「面倒だ、って言ったら楽になるのかな。なら、言うよ」
―――ああ、この弟は、なんだってこう、優しい/厳しいのか。
尊敬と嫉妬が綯い交ぜになった混沌の中、ゆっくりと意識が剥離していく。
「あんた、強いわ」
紡いだはずの言葉が、適切に出力されているかすら、自信がない。
ただ、
「強いひとの弟だからね。強くならないと、務まらない」
途絶の間際に聞いた、その言葉が。
どこまでも優しく響いたことを、憶えている。
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